今回は、マツコ・デラックスさんの人生のさまざまな側面を掘り下げて紹介します。
この記事では、まずマツコ・デラックスさんの家族構成からスタートし、細くて小柄で寡黙な父親や、息子を密かに支え続けた母親について詳しく述べています。
幼少期や学生時代のエピソード、家族との関係、そしてどのようにして現在の成功を収めるに至ったのかなど、さまざまなエピソードを交えて紹介します。
目次
マツコ・デラックスの家族構成!父親・母親・本人の3人家族
マツコ・デラックスの家族構成は「父親・母親・本人」の3人です。
母親:性格や外見がマツコ・デラックスそっくりな母親
長男:マツコ・デラックス本人
マツコ・デラックスの生い立ちや学歴!悩み多き中でも自分に正直な人!
- 名前:マツコ・デラックス
- 本名:松井貴博
- 生年月日:1972年10月26日
- 身長:178㎝
- 体重:140kg
- 血液型:A型
- 出身地:千葉県千葉市稲毛区
- 学歴:千葉市立園生小学校→千葉市立小中台中学校→千葉県立犢橋高校(偏差値43)→東京マックス美容専門学校
マツコデラックス の幼少期〜小学生:痩せていて野球少年!
マツコ・デラックスさんは1972年10月26日生まれ、千葉県千葉市稲毛区出身で普通のサラリーマンの家庭で育ちました。
両親にとってマツコ・デラックスさんは年を取ってからの子供で、兄弟はおらず、一人息子として一身に愛情を受けて成長しました。
マツコ・デラックスさんの自宅は少し変わった環境だったそうで、例えば、エアコンやCDプレーヤーを他の家庭よりも5年遅れて購入するなど、電化製品が家に導入されるのが遅かったようです。
ちなみにマツコ・デラックスさんが同性愛に目覚めたのは物心ついた6歳の頃で、いとこのお兄さんに性的な魅力を感じたそうです。
また同級生で好意を持った人には、突き飛ばすということで好意を表現していたとのことです。
そしてマツコ・デラックスさんは、小学校は千葉市立園生小学校に入学します。
その頃は痩せていて、野球をやっており、会話が面白かったため、クラスの優等生から不良まで様々な生徒が集まってきたそうです。
しかし友達と一緒に遊んでいても楽しめず、「何か嫌な子だった」と自分で感じていたのことです。
この時期、他の子供たちが楽しそうにゲームやファミコンで遊ぶ様子を大人びた目で見ていて、無邪気さや健気さをあまり感じない冷めた「超ドライな子供」と自身で言われており、自然に子供らしく振る舞うことや、ちゃんとしたふりをするのが苦痛だったと話されています。
その結果、心を開いて深く付き合った友達がいなかったため、小学校5年生の時には学校へ行くことが嫌になり、登校拒否をするようになりました。
私、短い間だったけど学校に行かない時期があったの」と告白し、「周りに合わせるのがつらくなっちゃったの。子供でいるのが疲れちゃって、学校の雰囲気が嫌になっちゃったの」と原因を説明した。
【引用元:マイナビニュース】
ただ、学校の先生たちには恵まれており、先生たちに会うためだけに学校へ行くこともありました。
小学校高学年からは女性週刊誌を好んで読むようになり、思春期には自分自身について深く考え悩んでいた時期があったそうです。
マツコ・デラックスさんは小学校の頃から歌手の中森明菜の大ファンで、彼女の曲の振付をすべて覚えて歌えるほど好きで、特に「十戒」の振付がお気に入りだったそうです。
テレビの生出演は10年ぶりとなった昨年末の『NHK紅白歌合戦』で歌う中森明菜の姿に、ただ“生きていて良かった”と安堵の気持ちだけだったマツコ・デラックス。小学校から中学校にかけてのマツコは、彼女の歌の振り付けを完璧に覚えて歌っている少年だった。
【引用元:ライブドアニュース】
マツコデラックス の中学〜高校時代:キムタクと高校の同級生!
そして千葉市立小中台中学校に進学したマツコ・デラックスさんは、ちょっとした不良っぽいファッションをしており、学生服の内側に刺しゅうの入った「中ラン」を着用していました。
この頃、マツコ・デラックスさんは「おネエ言葉」を使っていて、周囲の人たちはそれを冗談だと思っていました。
また、中学時代にも学校へ行かない時期があり、中学では部活動には参加していませんでした。
その後、千葉県立犢橋高等学校へ入学し、この学校でマツコ・デラックスさんと元SMAPの木村拓哉さんは一年間同じクラスで学びました。
しかし、マツコ・デラックスさんの容姿が大きく変わったため、木村拓哉さんは「どいつがお前になったか、わかんねぇ」と、どの同級生か分からなかったそうです。
マツコ・デラックスと高校の同級生だったという木村は「マツコに『聞いてるでしょ?』って聞かれたから、『同じ学校だったんでしょ』って返したの。そして、『でも、ごめんね。どいつがお前になったのかわかんねえ』って言った。そしたら『そこはそのままでいいわ』って言ってた」と、マツコとのエピソードを明かした。
【引用元:クランクイン】
高校時代の木村拓哉さんは、ちょうどSMAPを結成した頃で、1年で東京都立代々木高等学校に転校したため、マツコ・デラックスさんのことを覚えていませんでしたが、後にこのことについて謝罪しています。
一方、マツコ・デラックスさんは当時の木村拓哉さんのことを「可愛かった」と話しています。
マツコは、「いるだけでカッコいいけど、至って普通に過ごしていましたよ。かわいさも残っていましたね、カワイイ~っていう。今みたいな男らしいっていうよりもかわいいって感じ」とニヤリ。
【引用元:スポニチアネックス】
マツコ・デラックスさんは、高校時代も友達が少なかったようで部活動には参加していないそうです。
当時から大食いで、回転寿司を34皿も食べたことがあり、この頃は、かなり丸みを帯びた体型でした。
また、高校生時代には、女性に対して恋愛感情を持たないことに気がついていましたが、自分が女性になりたいとは思わず、性同一性障害ではないと感じていたそうです。
ただ大きな転機が訪れたのは高校3年生の時で、男性としての身体に特に不自由を感じていたわけではありませんが、女装をしたいという気持ちに悩んでいたそうです。
そして「もうこうなったら、なるようになれ!あがなっても仕方がない!」と考えるようになり、前向きな気持ちに変わり、資生堂が出版していた雑誌『花椿』を見て、服飾やメイクに対する興味をはっきり持つようになったと語っています。
男の身体でいることは苦痛ではないし、不自由は感じていないが、女装はしたい。そんな複雑な自分自身に気づいて、思春期は思い悩んでいたという。
だが、次第にマツコは「もうこうなったら、なるようになれ! 抗っても仕方がない!」と思えるようになっていく。完全に女装するようになったのは、高校3年生の頃。
【引用元:ダ・ヴィンチ】
その後、東京の田町駅前にあるコンビニのトイレでメイクや着替えをして「完全女装」をし、倉庫街にある「芝浦GOLD」というクラブに通っていました。
マツコデラックス のゲイ雑誌編集者時代:アルバイトから編集者に!
マツコ・デラックスさんは、高校を卒業後は、東京都品川区にある東京マックス美容専門学校で学び、美容師免許を取得しました。
しかし、美容業に就いたものの、マツコ・デラックスさんは今の価値観と将来に違和感を覚え、美容師の道を進むことをやめました。
そして、「何か違う」と感じて転職を考え、その後、ゲイ雑誌『Badi』の編集部に入り、アルバイトから編集者になりました。
マツコ「ゲイとしてのアイデンティティなど考えもせずに暮らしていた自分にとって、メディアで語られる新しい言葉、価値観は、お前はゲイとしてどう生きるつもりなんだ、そう突き付けられているように感じました。そして、いつしかそれは、何者かに衝き動かされるような感覚となり、ほどなくして、バディの門を叩くことになるのですが、もし、あの時に何も行動を起こしていなかったら、今こうして、メディアで女装を晒す日々を過ごすことになっていたかどうか、四半世紀の時の重みは凄まじいです」
【引用元:Yahoo!ニュース】
編集部は、マツコ・デラックスさんの働きぶりを評価して、「松風」というペンネームで編集や記者の仕事を任せていたそうです。
その後、この経験が活かされ、将来コラムニストとして活動を始めるきっかけとなりました。
ちなみに、マツコ・デラックスさんが本格的に女装を始めたのは、編集者として活動を始めた20代後半の頃です。
当時、マツコ・デラックスさんは両親に雑誌の編集者のことを内緒にしていたため、無職だと思われていたそうです。
ただ編集者として活動を始めたマツコ・デラックスさんですが、編集部での人間関係がうまくいかず、5年間働いた後に28歳で退職しました。
マツコデラックス のコラムニスト時代:引きこもりからTV業界へ!
その後、実家に戻りましたが、人間関係に悩み、2年間の引きこもり生活を送りました。
そのため、父親から「働かないやつは水飲むな」と叱られたとのことです。
「LGBT雑誌の編集者として5年間働いたのち退職。思うようにいかず挫折感を味わったマツコさんは自宅にひきこもったんです。建設会社のサラリーマンで厳格なお父さんは『働かないヤツは、水飲むな!』と怒ったそうです」
【引用元:女性自身】
この間、両親は「働け」と言いながらも、セクシャリティや仕事内容については深入りしなかったため、マツコ・デラックスさんは感謝しているようです。
「実家暮らしの2年間、両親はありのままのマツコさんを受け止めてくれたそうです。セクシュアリティや仕事内容に関しては、必要以上に踏み込むことはなく“デリケートなことには触れない”両親にはずっと感謝しているといいます」
【引用元:女性自身】
しかし、実家に戻って2年ほど経過した頃、マツコ・デラックスさんは引っ越しのため実家から追い出され、ボロアパートでの暮らしを余儀なくされました。
《老夫婦二人が身の丈にあった生活をしようと引っ越しを決めたタイミングで、実家を出ていくように言われたわ。両親も、このまま家に引き籠っていたら本当にだめになると思ったんじゃないかな。だから母親から『次の家にあんたの部屋はないんだから、出て行きなさい』と言われたの。しかたなくボロアパートで一人暮らしを始め、それから本格的にフリーのライターとして活動するようになった》(『週刊現代』’15年4月18日号)
【引用元:女性自身】
最初はドラァグクイーンとしてクラブに出演して小遣いを稼いだり、消費者金融からお金を借りて生活していたそうです。
ただそこから一念発起して、フリーのライターとして活動を始めた際、小説家の中村うさぎさんが、マツコ・デラックスさんの編集者時代の記事を読んでいたようで、対談集『人生張ってます』のゲストにマツコ・デラックスさんを招きました。
中村:私が小学館で出した『人生張ってます-無頼な女たちと語る』の対談相手の一人に、マツコを指名しました。編集部は誰もマツコなんて知らなかったけれど(笑)、とにかく面白い人だから入れたいと言ったの。戸惑ったのはマツコだよね。「私でいいの?」とか言っていたけれど、私は「いつもの調子で話せば面白いから大丈夫よ」なんて言ってさ。それがメディアに引っ張り出した最初だったかな。
【引用元:リアルサウンドブック】
中村うさぎさんは、「アンタは書くべき人間だ」と言い、それがきっかけでマツコ・デラックスさんは本格的にコラムニストとしてデビューしました。
マツコ・デラックスさんと中村うさぎさんは、共著の書籍を出版しており現在まで長く交流が続いているようです。
コラムニストの活動を本格化させたマツコ・デラックスさんは、スリーサイズが全て180センチで体重が140キロという体格や女装のスタイルで、タレント活動も始め、そのうち、『週刊女性』から連載の依頼が来るようになりました。
ちなみに上述したように、マツコ・デラックスさんは、2000年に28歳でバラエティ番組「ワンナイR&R」の前身番組「エブナイ」で初めてテレビに出演しています。
当時、マツコ・デラックスさんは、自分には居場所がないと感じていたため、テレビという新しい居場所ができたことをとてもありがたく思っていたそうです。
しかし型破りなエピソードを持つテレビ出演者たちに最初は圧倒されたそうで、周りの話を聞くたびに、自分の話がつまらないと感じ、出来事を大げさに脚色してしまうこともありました。
しかし、冷静になった時、「自分は何に媚びを売っているのだろう」と虚しくなり、嘘をついても自分が傷つくだけであり、他人を騙しても意味がないと悟ったそうです。
「自分じゃない自分」で勝負しようとしたことに虚無感を覚えたマツコ・デラックスさんは、もう絶対に嘘はつかないと決心しました。
嘘を吐いても自分が傷つくだけ。他人を騙しても意味がない。「自分じゃない自分」で勝負しようとしたことに虚無感を覚えたマツコはもう絶対に嘘はつくまいと決めたのだという。
【引用元:ダ・ヴィンチ】
タレント活動を本格的に始めると、毒舌混じりのコメントが受けて大ブレイクし、多くのバラエティ番組に出演、またCMにも多く出演し、その姿は非常に多くの人に知られるようになりました。
マツコデラックス の名前の由来は?
ちなみに、マツコ・デラックスという芸名の由来についてですが、マツコ・デラックスさんは元々、「マツコ」というニックネームで呼ばれていました。
しかし、「マツコ」だけではシンプルすぎると感じて、少し豪華さを出したいと考え「マツコ・ロワイヤル」や「マツコ・インターナショナル」、「マツコ・ユニバーサル」といった名前も候補にありました。
しかし、これらの名前は文字数が長すぎるという理由で却下され、最終的に、「マツコ・デラックス」が選ばれたようです。
マツコ・デラックスの父親は細くて小柄で寡黙な父親!
マツコデラックスの父親は細くて小柄で満州に住んでいたことも!
マツコ・デラックスさんの父親は1931年、昭和6年生まれで、九州出身です。
一般人のため、顔画像などはありませんが、マツコ・デラックスさんと全然似ておらず、細くて小柄で、分かりやすい特徴もないそうです。
幼少期は満州に住んでいて、戦争の激しい時代を経験しました。
そのためなのか、非常に堅実で真面目な性格だそうです。
昭和一桁の九州生まれ。終戦まで満州にいたみたい。建設会社のサラリーマンでした。私と全然似てません。細くて小柄で、分かりやすい特徴もない。
【引用元:朝日新聞2013.7.25】
マツコデラックスの父親の若い頃の顔をAIで想像してみた!
マツコデラックスの父親は寡黙であまり多くを語らない人!?
仕事は建設会社でサラリーマンとして勤め、家では贅沢をせず、古い物を大切に使い続けるという生活をしていました。
家電製品も新しいものを購入するよりは、長く修理しながら使い続けるタイプでした。
マツコ・デラックスさんが幼い頃から父は寡黙で、家庭ではあまり多くを語らない人でした。
マツコ・デラックスさんが引きこもって実家にいた時、母親に「今度引越しする時あなたの部屋はもうないわよ」と言われましたが、父親は「親子なんだからそんな厳しいこと言うな」と、かばってくれ、厳格でありながらも優しさを持っていました。
マツコ・デラックスさんが職を失い自宅に引きこもってしまった時も、生い立ちのところで上述したように、「働かない者は水を飲むな」と厳しく言いつつも、実際には陰で支えていたようです。
また、母親が亡くなった後は、父親が施設に入ることになり、マツコ・デラックスさんはその事実を受け入れつつも、父への深い感謝と愛情を持ち続けています。
最愛の母が旅立ち、マツコは父を心の支えにしていたようだ。かつてインタビューで終戦まで旧満州にいた父からは戦争の体験談を聞かされていたと語っている。 《隣で人が火だるまになって死んでるような時代を生きた人なら、子どもが女装してメディアに出たって、『まあ、とりあえず生きてるし』って動じないよなって》 《生きていられるんだから、セクシュアリティなんて何でもいいって気持ちが自分にあった。それにはすごく感謝してるわね。あの親じゃなかったら、今の私はなかったから》(『朝日新聞』’13年7月25日付)
【引用元:女性自身】
現在、マツコ・デラックスさんは父に仕送りをしており、それは「ちゃんと仕事して稼いでるから安心してほしい」ということを父に示すためでもあります。
折に触れて仕送りをするようになったそうです。けっしてご両親がお金に困っているわけではなく、『ちゃんと仕事して稼いでるから安心してほしい』という思いからだったといいます。ただ、父親が90歳を過ぎて独居するのは心配だという思いから、実家じまいをして施設への入居を決めたようです
【引用元:女性自身】
マツコ・デラックスの母親は性格や外見がマツコそっくり!
マツコデラックスの母親は外見や性格までもマツコそっくり!?
マツコ・デラックスさんの母親は、父親よりも2歳年下で、性格や外見がマツコ・デラックスさんにとても似ていることが特徴です。
特にサバサバした性格で、顔立ちや体格、話し方までよく似ているそうです。
思春期になると、マツコ・デラックスさんは外では母親のことを「おふくろ」と呼ぶようになりました。
しかし、実際には母親に対して面と向かって、「おふくろ」と呼んだことがなく、後になってそのことに罪悪感を覚え、「お母さんごめんなさい」という気持ちになったと語っています。
ちなみに普段は「お母さん」と呼んでいたことを、バラエティー番組「5時に夢中!」で明かしています。
マツコさん自身も「お母さん」と呼んでいることを周囲にバレるのが恥ずかしいと思っていた時期があるそうです。 そのため、対外的な母親の呼び方を工夫していたのだとか。「それで、『おふくろ』とか。急に武田鉄矢さんみたいな。私『おふくろ』なんて(直接は)呼んだこと一度もないのに。『うちのおふくろさ』みたいな」と言っていたことを告白。 マツコさんはその呼び方に多少の罪悪感と覚えたようで「だから、それを言った後いつもなんか、ごめんなさいって気持ちに。『お母さんごめんなさい』って気持ちになるのよ」と明かします。
【引用元:ココナッツ】
マツコデラックスと母親の関係性:陰からマツコを応援!?
マツコ・デラックスさんは、自身の性趣向や仕事について、両親には話したことがないと述べています。
テレビ番組に出演する際も、親に知られないようにと気を使い、全国ネットやゴールデンタイムを避けて仕事をしていました。
それでも、母親はマツコ・デラックスさんのことを陰から見守ってきたそうです。
ある年の正月、腰の手術をして杖を使わなければ歩けなくなった母親から手紙が届きました。
その手紙には、母親がマツコ・デラックスさんのテレビを見ているという内容が書かれており、最後は「今日も5時の生放送を見てます」で締めくくられていました。
マツコ・デラックスさんは、その手紙を読み、大笑いし、そして自分が孤独ではないことを再確認して号泣したそうです。
今年の正月 腰の手術をして杖を使わなければ歩けなくなった母から 初めて 明白に アタシのテレビを見ているという内容の手紙をもらったの そして 最後は「今日も5時の生放送を見ます」で締めくくられていたわ 女装した息子を ずっと母は見ていたのよ アタシ 思わず大笑いしちゃったわ そして 孤独ではない自分を再確認し号泣したわ
【引用元:2011年「悪の骨頂 続・うさぎとマツコの往復書簡」】
母親の誕生日には毎年イオンが出す造花をプレゼントしていました。
マツコ・デラックスさんは、母親が何をしろとも何をするなとも言わない、放任主義の親だったと語っています。
しかし、その距離感の中で、マツコ・デラックスさんは母親の愛を十分に感じていたと述べています。
「うちの親って何をしろも言わないし、何をするなとも言わない。激しく怒るわけでもない。めちゃくちゃ褒めることもない。ものすごくいい意味で言うと、すごく放任主義。悪く言うと、あまり関心がなかったのかなって思うの。子供にあまり関心がないって思わせるくらいの距離感でいいと思うんだよね、親って。これぐらいでも十分アタシは親の愛を感じるし。だから、何か言われたことっていうよりも、何も言わなかった親に感謝している。 アタシは女の人の気持ちはわかりませんよ、男だから。でも、女性に対しての尊敬がすごいの。それは母の影響が大きいのよ。アタシはもう何があっても母だから、いちばん尊敬している人は。もう亡くなっちゃったんだけど……」
【引用元:女性自身】
母親亡き後はマツコの部屋はゴミ屋敷に!?
そんな母親ですが、2016年に82歳で亡くなりました。
母親が亡くなった後、マツコ・デラックスさんは精神的に不安定になり、部屋がごみ屋敷寸前になるほど散らかってしまいました。
2021年の「マツコ&有吉 怒り新党」や「おしゃれイズム」でも、母親の死と将来の不安から精神的に不安定であることを語っており、亡くなられた母親との関係性がとても良かったことが伺えます。
ひとりっ子のマツコさんは’16年にお母さんを亡くしています。彼女が必死に働いてきたのは“両親と自分の老後の資金を蓄えるため”だと聞いたことがあります。お母さんが亡くなった後、自宅がゴミ屋敷状態になるなど、精神的に不安定な時期が続いていたそうです。
【引用元:女性自身】
マツコ・デラックスの家族構成まとめ
家族構成 | 特徴・詳細 |
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父親 | 1931年生まれ(2024年現在93歳)、九州出身。細くて小柄で寡黙。戦争の時代を経験しており、非常に堅実で真面目な性格。建設会社でサラリーマンとして勤務。厳しくも優しく、家族を陰ながら支える。 |
母親 | マツコ・デラックスさんと似ていて、サバサバした性格。陰からマツコ・デラックスさんを支えた。何事にも口を出さず、放任主義。2016年に82歳で亡くなった。 |
本人(マツコ・デラックス) | 幼少期からさまざまな悩みを抱えつつ、自分に正直に生きてきた。テレビタレント、コラムニストとして活躍。 |