この記事では、俳優の 間宮祥太朗さんの家族構成や生い立ちについて詳しく紹介していきたいと思います。
間宮祥太朗さんの子ども時代のエピソードや家族との関係、そして中学生でデビューしてから俳優として成功するまでのエピソードをたっぷりとお届けします。
間宮祥太朗さんの軌跡を知ることで、間宮祥太朗さんの魅力やその背景に迫りたいと思います。
目次
間宮祥太朗の家族構成!父親・母親・本人の3人
間宮祥太朗さんの家族構成は「父親・母親・本人」の3人です。
また、間宮祥太朗さんの「祖父母」はどんな方なのでしょうか?
間宮祥太朗の生い立ちや学歴!世界を旅する野球少年が俳優に!
- 名前:間宮祥太朗
- 本名:馬渡正太郎
- 生年月日:1993年(平成5年)6月11日
- 身長:179㎝
- 体重:60kg
- 血液型:O型
- 出身地:神奈川県横浜市
- 学歴:神奈川県横浜市立元街小学校→法政大学第二中学校(偏差値61)→神奈川県立神奈川総合高校(偏差値66)
間宮祥太朗の幼少期は3歳から祖父母と海外旅行!
間宮祥太朗さんは1993年6月11日に生まれ、本名は馬渡正太郎さんといいます。
間宮祥太朗さんは、「そういえばWikipediaに本名が書かれているので、隠すのも意味ないし、馬渡(まわたり)と言います」と自身のツイッターで本名を公表しており、馬渡という名字だと述べています。
間宮祥太朗さんは神奈川県横浜市出身で、家族構成は父と母の3人家族で一人っ子です。
間宮祥太朗さんは一人っ子ですが、「先輩とかにくっついて、小学校中学校とかから年上の人たちにくっついて遊んでました。お兄ちゃん欲しかった」と話しており、末っ子気質であることを明かしています。
一人っ子だという間宮だが「先輩とかにくっついて、小学校中学校とかから年上の人たちにくっついて遊んでました。お兄ちゃん欲しかった」と末っ子気質であることを口に。
【引用元:modelpress】
幼少期から間宮祥太朗さんは祖父母に可愛がられており、3歳の時から毎年、年に2回ほどの頻度で約1ヶ月間の海外旅行に連れて行ってもらっていたそうです。
この旅行の経験から、訪れた国は10カ国以上にのぼると間宮祥太朗さんは2019年8月30日放送の「徹子の部屋」(テレビ朝日系)で語っています。
3歳から祖父母に連れられて毎年海外旅行をしていたという間宮。訪れた国は10カ国以上といい、6歳のときにはオーストラリアで祖父が運転する車が故障。修理のあいだ、1人で近辺を歩き回っていた間宮の目の前に…コヨーテが!
【引用元:テレ朝POST】
間宮祥太朗
ちょっと好きになった
顔と名前が一致しなかったけど
ええやつっぽい
でも年に2回、1ヶ月間、海外に祖父と行くってすんげー金持ちやんな?— (@koba0384) June 21, 2019
間宮祥太朗は幼少期にコヨーテや猛毒のトカゲに遭遇!?
また、6歳の時にはオーストラリアへ行き、祖父が運転する車が故障してしまうという出来事がありました。
その修理の間に間宮祥太朗さんは一人で周辺を歩き回り、目の前にコヨーテが現れるという体験をしたそうです。
遠目には小さく見えたコヨーテも、近づくにつれて自分の身長と同じくらいの大きさであることに気づき、非常に怖い思いをしたと間宮祥太朗さんは話しています。
多分オーストラリアだったと思うんですけど、車がエンストして、その処理を祖父母が2人でやってて、子供なんで何も分からないし、つまらないなと思って1人で散歩に出かけちゃって。祖父母にもいわず。車から見えないところまで行ったんですけど、遠目から見るとそんなに大きいように感じなかったんですけど、どんどん近づいて行ったら自分の身長と同じくらいの体高があって、何だろうと思ったらそれがコヨーテだった。それがすごい距離も近かったんで、怖いなって思って緊張しながら後ずさりして頼むから食べないでと思いましたね。
【引用元:grape】
また、祖父とアメリカ横断旅行をした際に、車がエンストしてしまい、祖父が修理をしている間に周囲を歩いていると茶色いトゲトゲのトカゲに遭遇したそうです。
あとで動物図鑑で調べたところ、この茶色いトゲトゲのトカゲは猛毒だったそうで、2024年4月2日の「DayDay.」(日本テレビ系)にVTR出演した間宮祥太朗さんが、幼少期の“危機一髪”エピソードとして語っています。
間宮は幼少期に“恐怖体験”をしたといい、「ちっちゃい頃に祖父と祖母とアメリカ横断みたいな」と切り出すと、「荒地みたいな砂漠っぽいところで(車が)エンストして」と振り返った。続けて、「子供だからめちゃくちゃ暇で、もう車とか見えなくなるところまで1人でトコトコトコトコ歩いて行っちゃって、そしたら茶色いトゲトゲのトカゲがいて」「“うわ!トカゲだ!”と思って捕まえようとしたの」「結局捕まえられなくて。あとで動物図鑑見たら猛毒だった」と明かし、他の出演者からは、「あぶなっ!」という声があがっていた。
【引用元:livedoor NEWS】
間宮祥太朗の小学生時代は野球少年!初恋の女の子と両思い!?
間宮祥太朗さんは、幼い頃から阪神タイガースのファンだったそうです。
間宮祥太朗さんは小学校1年生の頃からソフトボールを始め、野球中継をよく観るようになったそうです。
また、間宮祥太朗さんの祖父が熱心な巨人ファンであり、その影響で幼少期から家では巨人戦が常に放映されていたようです。
当時の巨人はスター選手が多く、まさに常勝軍団であったのに、いつも祖父が巨人を応援していたため、間宮祥太朗さんは「なんかそれ違くない?」という感情を抱き、巨人に対抗する気持ちから阪神ファンになったとのことです。
――そもそも、間宮さんはいつ頃から阪神を応援するようになったのですか?
間宮 小1からソフトボールをやっていたので、野球中継はよく観ていました。ただ祖父が巨人ファンで、家ではいつもジャイアンツ戦。当時の巨人は仁志・清水・二岡・由伸・松井・清原・マルティネス・江藤とすごい選手ばかりの、まさに常勝軍団でした。だから絶対に勝つのに祖父が応援しているのを見て、幼いながらに「なんかそれ違くない?」という感情を抱いていたんです。
――つまり、阪神への愛は、“アンチ巨人の精神”から始まったと?
間宮 自分のマインドと、阪神という球団やファンの方々が抱えている気持ちが一致したんでしょうね。ただ、自分でも解せないのは、横浜スタジアムの近所に住んでいたのに、なぜベイスターズファンにならなかったのか……。本当に近くて、球場の鳴り物が聞こえるくらいだったんです。今でも不思議ですね(笑)。
【引用元:NumberWeb】
ちなみに、間宮祥太朗さんは自身の性格を「天邪鬼」と表現しており、8歳から野球を始めたそうですが、野球をやっている間、坊主頭になることを拒否し続けていたようです。
「生来の性質か、天邪鬼なのかわからないですけど、例をあげると僕は阪神タイガースファン。それは祖父が巨人ファンで、当時、巨人は圧倒的に強く、強大な権力を持った存在だったから。僕はそういう大きな力に対しての反発心がすごく強いんです。8歳から15歳まで続けていた野球でも、坊主頭を拒否し続けてましたし(笑)。何々しなくちゃいけないという、同調圧力が大嫌い。自分で考え、自分を生きていたいんです」
【引用元:Precious.jp】
間宮祥太朗は9歳で小学校を転校も初恋を経験!
間宮祥太朗さんは9歳のときにKAAT神奈川芸術劇場の近くに引っ越し、小学校3年生の頃に神奈川県横浜市立元街小学校に転校しています。
不道徳教室が上演されるKAAT神奈川芸術劇場の辺りは僕が9歳から18歳までを過ごしたTHE地元なのです。 素敵な街だよな、と今来てもつくづく思います。 開放感あるし落ち着く店も沢山あって生き急ぐ強迫観念とは無縁な雰囲気を感じさせる。
YOKOHAMA MINATOMACHI — 間宮 祥太朗 (@shotaro_mamiya) May 30, 2013
そのため、間宮祥太朗さんは地元に友達が少なく、地元の友達集団がいる人がうらやましいことをインタビューで明かしています。
俺はあまり地元の友達がいなくて。小・中・高、別々でしたし、小学校も転校していたりするので、地元に帰ったときに、“マイホーム”みたいな友達集団がいないので、そういうのがある人がうらやましいなと思うんです。
【引用元:Deview】
小学校時代の間宮祥太朗さんはやんちゃで、クラスの中で1番先生に怒られたり、いたずらをしたりするタイプだったようです。
また、好きだった女の子は「ちょっと男子、掃除サボらない!」と言うようなしっかりしたタイプであることを2022年7月13日放送の「TOKIOカケル」(フジテレビ系)に出演した際に明かしています。
自身は「やんちゃな小学生で、クラスの中で1番先生に怒られたりとかいたずらで活発で、ちょっとガキ大将みたいな」タイプだったのに対して、好きだった女の子は「『ちょっと男子掃除サボらない!』みたいなしっかりした」タイプ。
【引用元:modelpress】
また、転校先の小学校で初恋を経験し、転校した小学校3年生のころから気になる女の子がいたそうです。
そして、その女の子から6年生のバレンタインデーにチョコレートをもらい、間宮祥太朗さんはホワイトデーに「好きです」と告白したとのことです。
転校した小学校3年生のころから、ずっと気になる存在だったのだそう。すると、6年生のバレンタインデーには、その彼女からチョコレートが。「小学校卒業すると別々になっちゃうんで、これはもう、言おう」とホワイトデーの時に「好きです」と告白したという間宮。
【引用元:modelpress】
しかし、周りに他の人もいたため照れもあり、その告白に対する返答は笑顔だけで、結果的に付き合うことにはなりませんでしたが、今でも甘酸っぱい思い出として残っているようです。
周りに他の人もいたため、照れもありそれに対する返答は笑顔しかなく、結果付き合う付き合わないまではいかなかったものの、「忘れないです。今どうしてるんだろうとか思います」と甘酸っぱい思い出となっていることを明かしていた。
【引用元:modelpress】
間宮祥太朗の中学時代は野球のため法政大学の系列校へ!
間宮祥太朗さんは、2006年4月に私立の男子校である法政大学第二中学校に進学しました。
法政大学第二中学校は1986年に開校した私立中学校で、法政大学の系列校です。
この学校は県内でも人気があり、部活動も盛んで、特にアメリカンフットボール部やラグビー部は強豪として知られています。
間宮祥太朗さんがこの中学校を選んだ理由は、野球が強い学校だったからだそうです。
また、中学受験の際に、甲子園で活躍してプロに行く確率よりも、大学を経由した方がプロに行ける可能性が高いと考え、法政大学の付属校を選んだことをインタビューで明かしています。
――学生時代は、プロ選手を目指す野球少年だったと聞いています。 間宮 そうですね。中学受験のときも、甲子園で活躍してプロに行く確率より、大学を経由したほうが(プロに)行ける可能性があると思って付属校を選んだぐらいでしたから。「将来の夢はプロ野球選手」は、何度も言ってきました。
【引用元:NumberWeb】
間宮祥太朗さんは中学時代、男子校ということもあってか、授業も真面目に聞かず、男同士で騒いでいたとインタビューで振り返っています。
僕は男子校だったので、恋愛のときめきとか思い出になくて、汗臭いだけの教室でしたけど(笑)。不良とかじゃないけど、授業もあまり真面目に聞かないで、男同士で騒いでいるような学生時代でした。
【引用元:PINTSCOPE】
そして、中学時代の間宮祥太朗さんは、野球をするために法政大学第二中学校に進学していたため、野球部に所属していました。
しかし、練習が厳しかったため、最初は30人ほどいた部員が半分になってしまい、同期の部員が一気に減っていったそうです。
間宮祥太朗さんは1年生の頃から試合に出ていたため順調に過ごしていたようですが、1年生で試合に出ていたのは3人だけだったとのことです。
入部した当初は同期が30人ほどいたんですけど、あまりに厳しくて一気に半分ぐらいに減ってしまって(笑)。でも、自分の場合は1年生の頃から試合に使ってもらっていたので順調でした。(最初から試合に出ていたのは)同学年では3人だけでしたし。
【引用元:NumberWeb】
間宮祥太朗は野球を辞め芸能界へ!
ただ、中学2年生の途中で間宮祥太朗さんは野球部を辞めています。
辞めた理由は、同級生で同じピッチャーだったライバルの友人がストイックに野球に打ち込む姿を見て、自分がそこまで情熱を注ぐものは他にあるのではないかと考えたからだそうです。
同級生に同じピッチャーですごい選手がいたんです。彼は真面目な性格で、“起きたらすぐトレーニング”みたいな子。もちろん学校には遅刻しないし、宿題もいつも終わっていて、成績がいいから補習に呼ばれることなんてない。自分とはタイプが違いました。でもそういう選手ほど意識するじゃないですか。そうして彼のことをずっと見ているうちに、本当に野球に対する情熱が強ければ、もっと彼と同じような生活を送っているはずだと考えるようになったんです。
【引用元:NumberWeb】
そして、次の日には顧問の先生に部活を辞めると伝えたことをインタビューで明かしています。
そんなことを考え始めて、もう次の日には顧問の先生のところへ行って「部活を辞めます」と伝えていました。それが中2の時です。
【引用元:NumberWeb】
それまでの間宮祥太朗さんは人気者で、常に取り巻きがいたそうですが、野球を辞めた後は群れることがイヤになり、友人たちと距離を取るようになり、一匹狼的な感じになったとのことです。
人気者で常に取り巻きがいたが、『群れるのがイヤで』距離をとるようになった。「別に僕のことが好きなのではなくて、なんとなく目立つやつのそばにいたいだけなんだろう……とか、一気に醒め始めて。もともと俯瞰するようなところはあったんですが、一匹狼的になりました」
【引用元:Precious.jp】
そして、ひとりでいることが増え、音楽を聴いたり映画を観たりするようになったようです。
野球をやめてからは、意識的にみんなでつるむことをやめて、それこそ映画の小坂と同じ窓際の一番うしろの席で、ひとりで音楽を聴いたりしていたんです。
【引用元:PINSCOPE】
ちなみに、間宮祥太朗さんは中学時代、学校の勉強は覚えれば点数がとれ、退屈していたこともあり、年間200本ほどの映画を観ていたそうです。
日本映画が独創的でエッジの効いた作品が多く、DVDを借りて観ることに夢中になっていたことをインタビューで語っています。
「僕が中学生の頃、日本映画はうねっていた。独創的でエッジの効いた面白い作品だらけでした。家族や先輩、学校の教科書では教えてもらえない、感覚や言葉が溢れていて。DVDを借りまくって、年間200本ぐらい観ましたね。覚えれば点数がとれる、学生生活に退屈していたのかもしれません。正解がない映画の世界は、僕にとって得体が知れなくて、すごく魅力的に見えた」
【引用元:Precious.jp】
また、野球部を辞めてしばらくしたころに、学校の先輩に誘われて雑誌モデルに挑戦し、そこから芸能の仕事が始まったそうです。
それで野球部を辞めてしばらくしたころに、雑誌モデルに誘われ、そこから芸能のお仕事を始めるようになったんです。
【引用元:NumberWeb】
そして、中学生向けファッション誌「Hana*chu→」の読者モデルとしてデビューし、人気を集めました。
中学時代は雑誌『Hana*chu→』の読者モデルながら、特集が組まれるほどの人気ぶり。
【引用元:週刊女性PRIME】
読者モデルは図書カードがもらえるという理由で出ていたそうですが、子どもの頃から映画が好きで、映画に携わる仕事がしたいと思っていたそうで、読者モデルをやっていたことがきっかけとなり、現在所属している芸能事務所に入ったとのことです。
読者モデルの延長で、役者になったのかと尋ねると、そうではないという。
「読者モデルは、図書カードがもらえるから出てただけで(笑い)。子どものときから、とにかく映画が好きで、映画に携わる仕事をしたいと、漠然と、でも強く思ってました。配給でもライターでも何でもいい、みたいな。そんなときに、今の事務所に声をかけてもらって」
【引用元:週刊女性PRIME】
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そして、15歳でドラマ「スクラップ・ティーチャー~教師再生」の日置祥太朗役で俳優デビューを果たしました。
@shotaro_mamiya
スクラップティーチャーの時の間宮くん。あんまり変わらないですね! pic.twitter.com/WMPbj5kLZi— しゅがーはアイコン変えたよ☻ (@suger_zone) June 19, 2014
なおこの中学校の卒業生の大半は系列の法政大学第二高校(偏差値70)に進学しますが、間宮祥太朗さんは共学校に通学したいなどの理由で法政大学附属の高校には進学しませんでした。
間宮祥太朗は高校時代は念願の共学へ進学!
間宮祥太朗さんは2009年4月に神奈川県立神奈川総合高校に進学しました。
間宮祥太朗さんが選んだ理由の一つは、この高校が大学のように単位制をとっていたため、仕事と両立しやすかったことと、中学校が男子校だったため、高校では共学校に通いたいと考えていたからだそうです。
間宮祥太朗さんは仕事が忙しかったため、部活動には参加せず、帰宅部として過ごしていました。
また、高校生の頃は、俳優業の傍らでバンドをやっており、主にボーカルを担当し、作曲もしていたそうです。
間宮は「俺は高校時代、バンドやってたから」とバンドのボーカルで作曲などもこなしていたそうで、森川らに「絶対モテるじゃーん」と言われると「モテてたかも」と照れ笑いした。
【引用元:WEBザテレビジョン】
そのため、高校時代はライブハウスに入り浸り、自身のバンドでライブをしたり、友人のライブを観に行ったり、アーティストのライブやフェスに行ったりと、音楽に集中していたそうです。
また、映画館にもよく足を運んだとのことで、マンガ喫茶にいっても朝まで映画を観たりしていたとインタビューで振り返っています。
高校時代の過ごし方について問うと、「ライブハウスに入り浸っていましたね。自分も趣味程度でバンドをやっていたんで、ライブをしたり友人のライブを観に行ったり、自分の好きなアーティストのライブだったりフェスだったり、とにかく音楽のある場にいました。あとは今よりたくさん映画館に行っていましたね。友人と名画座で2本立てとか3本立てを観たり、マンガ喫茶みたいなところに友達と2人で入って朝まで映画を観たり。そういうことに触れる時間が多かったのが、未だにすごい財産だなと思っています」と振り返る。
【引用元:Real Sound】
ちなみに、高校1年生の時に短期間付き合った女子にフラれた経験もあるそうで、その際、当時あまり親しくない彼女の男友達に電話をかけて相談し、話を聞いてもらったことがきっかけで、その友達と仲良くなったことがあると明かしています。
その友達が、映画「闇金ウシジマくん ザ・ファイナル」で共演することになる俳優の仲野太賀さんとのことです。
僕、基本的にすぐフラれるんです。向こうから「付き合っていられない」って言われちゃう。失恋の話で思い出すのは、僕が15~16歳のころ、すごく好きで1年弱付き合った女の子にフラれてしまったときのこと。誰かに話を聞いてほしくて、彼女の男友達で、1回しか会ったことがなくて、全然仲良くもない人にいきなり電話をかけて「彼女にフラれて、マジでキツい」って泣いたんです。で、それから3時間くらい、映画や音楽の話をして盛り上がって、立ち直りました(笑)。そうやって仲良くなったのが、今回の映画で共演している太賀なんです!!
【引用元:JOSEISHI.NET】
なお、間宮祥太朗さんは「一番大事なものは仲間」と語っており、彼女がいても友達と毎日会いたいタイプだったそうです。
また、学生時代の夏は友達とフェスに行ったり、旅行に行ったりして満喫していたことをインタビューで語っています。
一番大事なものは仲間でしたから。僕は彼女がいたとしても、おかまいなしに友達と毎日会いたいタイプ(笑)。それが嫌だって言われたら、「えっ? なんで?」って思っちゃいますね。学生時代の夏は、友達とフェスに行ったり、旅行に行って満喫していました(笑)。
【引用元:livedoor NEWS】
間宮祥太朗の高校時代から俳優として大活躍!!
間宮祥太朗さんは高校3年間にわたり芸能活動を続けており、テレビドラマや映画に出演していました。
主な作品には「ヤンキー君とメガネちゃん」、「3年B組金八先生ファイナル」、「花ざかりの君たちへ~イケメンパラダイス2011」などがあります。
また、間宮祥太朗さんは高校2年生の時に「ウルトラゾーン」というバラエティー番組にもレギュラー出演していました。
間宮祥太朗さんは高校卒業時には既に若手俳優として注目されており、俳優業に集中するために、高校卒業後、大学には進学せず、芸能活動に専念しました。
高校卒業後もドラマ「学校のカイダン」などで主演を務め、さらに2018年にはNHK朝ドラ「半分、青い。」でヒロインの夫役を演じています。
間宮祥太朗の父親の職業は?多忙で多趣味も子供の意思を尊重?
間宮祥太朗の父親は「BUCK―TICK」ボーカルの櫻井敦司って本当?
間宮祥太朗さんの父親は一般人のため、詳しい情報は公表されていません。
ネット上で間宮祥太朗さんの父親がミュージシャンの「BUCK―TICK」ボーカルの櫻井敦司さんではないかと噂されたことがありますが、実際は全くの赤の他人です。
間宮祥太朗さんと顔立ちが似ていることから生まれた噂のようですが、間宮祥太朗さんの本名の苗字は「馬渡(まわたり)」であり、父親は存命のため、事実ではありません。
間宮祥太朗の父親の職業は?多忙だけど多趣味!
間宮祥太朗さんの父親は日曜日だけが休みだったようですが、職業は不明です。
そのため、間宮祥太朗さんが小学生の頃は、日曜日の夕食後に家族で1本映画を観る習慣があったことをインタビューで語っています。
最初は両親が借りてきた洋画の大作を観ていたようですが、やがて自分で通っていた塾の1階にあったTSUTAYAに立ち寄り、興味のある映画を選ぶようになったとのことです。
そして、この習慣のおかげで、映画は間宮祥太朗さんにとって身近な存在となったようです。
小学生の頃、父親が日曜日に仕事がお休みだったので、夕食後に家族で1本映画を観る習慣があったんです。映画を1週間に1本観るのが生活の一部みたいな感じで。だから、映画は近い存在というか、観るのが当たり前のことでした。最初は父親とか母親が趣味で借りてきた洋画の大作とかを観はじめて。それから、通っていた塾が2階で、その1階がTSUTAYAだったんです。塾が終わると、家に帰る前にTSUTAYAに入り浸るようになって、それで初めて自分の興味の沸くものを手に取り始めて。そこからどっぷりですね。
【引用元:SPICE】
また、間宮祥太朗さんは子どもの頃に父親とフライフィッシングをしたことがあるそうです。
子どものころに父とフライフィッシングをしていたことがあったので、時間ができたら今年のうちに釣りをやりたいですね。
【引用元:MOVIE Collection】
さらに、間宮祥太朗さんは、幼少期に父親と将棋も楽しんでいたそうです。
間宮祥太朗さんは父親と一緒に将棋を指すことで、将棋のルールを覚えたようです。
将棋自体は小さい頃、父と一緒にやったことがあるので、ルールは分かるんです。
【引用元:tv asahi】
間宮祥太朗の両親は子どもの意思を尊重!
間宮祥太朗さんは「そもそも自分の選択は自分でするべき」と両親に育てられてきたと話しています。
間宮祥太朗さんが野球をするために受験して入った法政大学第二中学校の野球部を途中退部したり、高校はそのまま法政高校に行けたのに公立などに行けたのは、「そもそも自分の選択は自分でするべき」という両親の子どもの意思を尊重する考えのお陰かもしれません。
そもそも自分の選択は自分でするべきって両親に育てられてきたので、丑松のように『自分の出自を隠せ』って父親の戒めを守り続ける自信もない。
【引用元:美人百花.com】
間宮祥太朗の父親の顔画像をAIで想像してみた!
間宮祥太朗の母親は美容師で料理上手の美人!
間宮祥太朗さんの母親は一般人のため、名前などは不明です。
ただ2019年10月30日放送の「バゲット」(日本テレビ系)で母親が美容師であることを明かしています。
そのため、間宮祥太朗さんは子どもの頃からワックスをつけて毛先を遊ばせたり、コテを使ったりしてヘアスタイルに気を使っていたとのことです。
間宮は自身の子ども時代について「親が美容師なんですけど、母親が」と話し始めた。続けて「ワックスをつけ始めた時期がすごい早くて」「毛先は遊ばせて」と明かすと、桜井は驚いた様子で「大層モテたでしょう」とコメント。さらに、間宮は「コテとか使って…」とも明かしていた。
【引用元:exciteニュース】
また、間宮祥太朗さんは2022年4月13日放送の「おふくろ、もう一杯」(フジテレビ系)で「ほうれん草のラザニア」をおふくろの味として紹介しています。
「間宮祥太朗にとってのおふくろの味「ほうれん草のラザニア」を再現し、武田鉄矢とともにその思い出を振り返る。一見、手間のかかる料理だが間宮家では特別な日のメニューではなく普段の食卓に並んでいたという。」
【引用元:フジテレビ】
間宮祥太朗の祖父母はお金持ちで旅行三昧!?
間宮祥太朗の祖父はジャズトランペッターで貿易関係の仕事!?
間宮祥太朗さんの祖父母は一般人のため、詳しい情報は公開されていません。
しかし、間宮祥太朗さんは、自身の祖父(父方か母方かは不明)について、「祖父に育ててもらってなかったら、今ここにいない」と表現しています。
そのため、間宮祥太朗さんは頻繁にあっていた可能性や、祖父母と同居していた可能性も考えられます。
また、間宮祥太朗さんの祖父は、間宮祥太朗さんにとって大切な存在であり、間宮祥太朗さんの人生に大きな影響を与えたことがうかがえます。
間宮祥太朗が語る祖父との絆「祖父に育ててもらってなかったら、今ここにいない」
【引用元:WEBザテレビジョン】
ちなみに、間宮祥太朗さんの祖父の具体的な職業については明かされていませんが、間宮祥太朗さんが2019年に「徹子の部屋」(テレビ朝日系)に出演した際、「海外への思いが強い人で海外を飛び回っていた人」「中国語を始めたのは65歳ぐらいからで、常に何か新しいことを習得しようとしている人」と述べています。
そして、インタビューでは貿易関係の仕事をしていたことを明かしています。
祖父が貿易関係の仕事をしていたので、子供のころから海外の国々に連れて行ってもらいました。たぶん孫に広い世界を見させてやろうと思ったんじゃないでしょうか。
【引用元:Precious.jp】
また、祖父が若い頃にジャズバンドでトランペットを吹いていたことをインタビューで明かしています。
そして祖父の影響で間宮祥太朗さんも幼少期からジャズに親しんでいたそうです。
僕の祖父が若い頃にジャズバンドでトランペットを吹いていたので、幼いころからジャズに親しんでいたんです。
【引用元:Precious.jp】
間宮祥太朗は祖父に世界を見せてもらう!
間宮祥太朗さんの祖父母は、間宮祥太朗さんが3歳の時から年に2回、長期海外旅行に連れて行ってくれていたそうです。
旅行はツアーではなく、行き先を自分で決めて、現地でレンタカーを借り、モーテルに泊まりながら自然を観に行っていたそうです。
間宮は「祖父と祖母と小さい頃に海外旅行によく行っていて。ツアーとかじゃなくて、自然を観に行くのがテーマ。行く場所を決めたらそこに飛んで、レンタカーを借りて、モーテルに泊まるみたいなのを夏休みとか冬休みとかに」と説明。当時、10か国以上を巡ったという。
【引用元:クランクイン!】
これらの旅行は、間宮祥太朗さんの夏休みや冬休みに合わせて行われ、訪れた国々は10か国以上に及ぶそうです。
また、間宮祥太朗さんは、「アナザースカイⅡ」(日本テレビ系)でアフリカへ旅行していますが、アフリカは祖父が間宮祥太朗さんを最後に連れて行きたかった場所だそうです。
「祖父の中で、孫ができたら世界を旅させるというのは決めていたそう」と語る間宮。「アフリカに連れて行って、それを最後にするようなことを言っていたんですが、『体力的にアフリカで何かあっても祥太朗のことを守れない』と断念した、じいちゃんの雪辱の地です」という。【引用元:日テレ】
しかし、間宮祥太朗さんの祖父は「体力的にアフリカで何かあっても祥太朗のことを守れない」と断念。
アフリカに祖父と一緒に行くことができなかったため、祖父が存命のうちに間宮祥太朗さん自身がアフリカに行く姿を見せることができてよかったと振り返っています。
「アフリカが一番の(旅の)ラスボスみたいな。祖父と一緒に終着点に来れなかったから、存命のうちにその姿を見せられるというのは、本当によかったなって気がします」とこの旅を振り返った。
【引用元:日テレ】
間宮祥太朗さんを幼い頃から海外へ連れて行った理由を、「アナザースカイ」(日本テレビ系)が祖父に直接取材したところ、 「将来どのような道に進んでも日本は必ず海外との接触無くして成長なしと確信していたので、本人がどんな環境でも同化して成長、チャレンジする人間となる意欲を持てるような感性を培ってほしかった」と明かしています。
今回、番組では間宮のお祖父様ご本人にアンケートを実施。幼少期の間宮に、海外で何を感じてほしかったかという質問には「将来どのような道に進んでも日本は必ず海外との接触無くして成長なしと確信していたので、本人がどんな環境でも同化して成長、チャレンジする人間となる意欲を持てるような感性を培ってほしかった」という回答が。
【引用元:日テレ】
そのため、間宮祥太朗さんは祖父から「ターザンになれ」とアドバイスを受けていたそうです。
アドバイスを受けた当時は意味もわからず、解説も聞いていないそうですが、俳優となった現在では、環境に合わせて成長することが大切だと解釈しており、祖父の教えが役に立っていることを語っています。
祖父からは“ターザンになれ”とアドバイスを受けていたという。当時は意味がわからなく、祖父からの解説も聞いていないそうだが、間宮は「環境に合わせて成長するっていう話なのかなって思っていて」と話した。この祖父の教えは自身の役者という職業に役立っているそうで、「現場が3か月とか2か月で変わると、ルールも変わる。その場によってその時のバランス感覚って違う」と語り、あらためて祖父の存在を「めちゃくちゃでかいですね」と噛みしめていた。
【引用元:クランクイン!】
間宮祥太朗はあやうく「きゅうたろう」になるところだった!?
祖父は間宮祥太朗さんの名前を「きゅうたろう」にしようと思ったことがあったそうです。
間宮祥太朗さんはそのエピソードをXで明かしていました。(※現在、間宮祥太朗さんのツイートは削除済み)
僕はお祖父ちゃんの血迷いで、一時きゅうたろうになりかけたらしいです。
“@tamkenNNN: 田村純#今の本名じゃなかったらなる予定だった名前”
— 間宮 祥太朗 (@shotaro_mamiya) February 26, 2013
また、間宮祥太朗さんの祖父はお酒が大好きでだそうで、毎日ウイスキーを1本飲んでたようです。
しかし、歳を重ねるにつれて健康を考え、ウイスキーの量を減らすようになったとのことです。
しかし、2016年頃、間宮祥太朗さんと一緒にお酒を飲んだ際には「今日は祥太朗と飲むのがうれしいから、今日は1本のんじゃう」と言ってウイスキー1本飲みほしたそうです。
その時間をとても喜んでくれたことが、間宮祥太朗さんにとっても深い思い出となっているようです。
間宮祥太朗の家族構成まとめ
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家族構成 | 説明 |
---|---|
父親 | 日曜日だけ休み。映画好きでフライフィッシングや将棋もする多趣味な人物。 |
母親 | 美容師で料理上手。おふくろの味として「ほうれん草のラザニア」を作っていた。 |
本人(間宮祥太朗) | 1993年6月11日生まれ。神奈川県横浜市出身。本名は馬渡正太郎。3歳から祖父母と年に2回、海外旅行に行き、訪れた国は10カ国以上。小学生時代は野球をしていたが、中学で野球を辞め、芸能活動を始める。 |
祖父 | 貿易関係の仕事をしていた。間宮祥太朗を3歳から年に2回、長期の海外旅行に連れて行き、10カ国以上訪問。ウイスキー好き。 |
祖母 | 間宮祥太朗と同居していた可能性がある。祖父と一緒に間宮祥太朗を海外旅行に連れて行っていた。 |