今回は、野球ファンなら誰もが注目するスーパースター、大谷翔平選手の父親、大谷徹さんに焦点を当てていきます。
大谷徹さんがどのような方で、どんな経歴をお持ちなのか、また様々な噂についても深掘りしていきます。
大谷徹さんは、かつて社会人野球で活躍され、その後はシステムエンジニア、自動車工場などで働き、忙しい合間をぬって、大谷翔平選手を指導します。
大谷翔平選手の素晴らしいプレーに魅了される私たちですが、その背景にあるご家族の支えや愛情にも目を向けてみましょう。
目次
大谷翔平の父親(大谷徹)のwikiプロフィール
この投稿をInstagramで見る
項目 | 詳細 |
---|---|
名前 | 大谷徹(おおたにとおる) |
生年月日 | 1962年 |
出身地 | 岩手県北上市和賀町 |
経歴 | 岩手県立黒沢尻工業卒業→三菱重工横浜野球部 |
学歴 | 岩手県立黒沢尻工業 |
職歴 | 三菱重工横浜→トヨタ自動車東日本→金ケ崎リトルシニア監督 |
身長 | 182cm |
大谷翔平の父親(大谷徹)の生い立ち!甲子園に出場したの?身長は?
大谷翔平選手の父親である大谷徹さんですが、1962年生まれ、岩手県北上市和賀町の出身で、身長は182cm、血液型は不明です。
大谷徹さんの子供時代、特に中学時代は興味深いエピソードに富んでいます。
大谷徹さんは中学では野球部ではなく陸上部でした。
これは、中学の野球部が坊主頭を義務付けていたため、「坊主頭になるのが嫌だ」という理由から陸上部を選んだそうです。
しかし、運動神経抜群で、三種競技(100m走、砲丸投、走高跳)で、県大会入賞するほどの実力でした。
ただ陸上は個人競技特有の明確な勝ち負けに対し嫌気がさし、中学2年生の途中で野球部にうつります。
野球部に移ると、エース兼4番打者として活躍し、県内の野球強豪高校からも注目されるようになったのです。
そして、野球へのこの転向が、後の人生に大きな影響を及ぼすことになります。
高校は、岩手県立黒沢尻工業高等学校に進学します。
近年は野球部は苦戦しているようですが、大谷徹さんが入学する前年は、夏の甲子園に出場したり、入学直前の春の甲子園に出場する強豪校でした。
高校時代は広島カープの高橋慶彦選手に憧れ、右打ちを左打ちに変えるなど一心に野球に取り組む日々。
クリーンナップを任され、左の強打者として鳴らします。
しかし結局3年間、甲子園出場が叶うことはありませんでした。
高校卒業後は、黒沢尻工業野球部OBの紹介で、社会人野球へ進み、プロ野球選手を目指すことになります。
大谷翔平の父親(大谷徹)の職業は?トヨタや三菱重工に勤務!
大谷翔平選手の父親、大谷徹さんの職業や職歴ですが、野球に携わる仕事などに主に就いており、野球への情熱が感じられます。
三菱重工横浜での社会人野球時代
高校卒業後は、黒沢尻工業野球部OBの紹介で、三菱重工横浜(現三菱重工East硬式野球部)のセレクションを受けます。
そして1980年に三菱重工横浜で社会人野球の選手となり、プロ野球選手を目指すことになります。
この投稿をInstagramで見る
社会人野球選手として、大谷徹さんの日常は午前中の数時間をワープロ打ちやコピー取りなどの仕事に費やし、午後からは野球部の練習をするというものでした。
外野手として1、2番を打つ速さを活かしたプレイスタイルが特徴で、足と肩に自信を持っていたそうです。
下の画像は当時の貴重な社内報の記事で、若い頃の大谷徹さんが取り上げられています。
しかし、1年目で肩を故障し、その後6年間プレーしたものの、24歳で戦力外通告を受けます。
プロ野球への道は開けず、野球選手としてのキャリアに終止符を打つことになりますが、引退後、三菱重工で出会った妻・加代子さんと結婚します。
大谷の父・徹は24歳の夏、三菱重工横浜の野球部を引退、その年の12月に加代子と結婚式を挙げた。 【引用元:日刊ゲンダイ】
その後、大谷徹さんは野球から離れ、三菱重工横浜での勤務を続けます。
選手を引退後の仕事の中心はシステムエンジニアとしての業務だったようで、コンピューターの勉強をしながら、親会社の業務に取り組みました。
トヨタ自動車東日本での工場勤務
しかし大谷徹さんの故郷岩手に、大きな自動車工場ができ、従業員を募集するというタイミングで、三菱重工横浜を辞め、岩手に戻ります。
そして1991年に、故郷にできた関東自動車(現在のトヨタ自動車東日本)へと転職します。
岩手に戻った理由は、神奈川より、出身地の岩手の方が一戸建てを安く購入できるという理由でした。
これは、1988年に大谷翔平選手の兄で、大谷家の長男である大谷龍太さんが誕生しており、子どもを育てるための自分たちの家を持ちたいということが大きかったようです。
《家族を養っていかなければいけない。子どもを育てなければいけない》
そのためにも、「わが家」という明確な自分たちの持ち家を築きたい。リビングにキッチン、寝室も必要だし、子どもたちが成長すればそれぞれが部屋を欲しくなる。そんな広さの一戸建てを購入しようと思えば、都会ではかなりの大金が動く。正直なところ、神奈川県のような大都市に住み続ければ、それ相応の一戸建てを手に入れるのは容易なことではない。 【引用元:東洋経済ONLINE】
さらに将来、子どもが野球をする上での環境も考慮したそうです。
その思いが先に立ち、徹さんは自身の人生というよりも、大谷家の将来を考えて岩手に引っ越す覚悟を決めた。そして、岩手に戻ったのにはこんな理由もあった。「子どもに野球をやらせるんだったら、田舎の環境のほうがいいと思っていました」 【引用元:東洋経済ONLINE】
岩手での仕事は、自動車のボディーメーカーで車体を造る過程のラインに携わる仕事だったそうです。
完全な昼夜2交代制の勤務で、夜から朝方まで続く夜勤の日も多く、さらに通勤には往復3時間もかかったとか。
仕事が多忙なため長男である大谷龍太さんとは野球の練習を一緒にできなかったそうで、それを大谷徹さんは悔やんでいたそうです。
翔平と7つ違いの(長男の)龍太は、小さい頃は地元のスポーツ少年団で野球をやっていました。中学校でも軟式です。当時の私は、仕事が忙しくて龍太に対して手取り足取り野球を教えてあげられなかった。キャッチボールもなかなか付き合ってあげることができなかったんです。そのことが心のどこかに引っかかっていまして……。今でも龍太には申し訳なかったと思っているんです。そのこともあって、翔平には一生懸命に野球を教えてあげようかな、と。 【引用元:東洋経済ONLINE】
それが理由で、次男である大谷翔平選手の野球の指導へは熱心に取り組み、野球への情熱を大谷翔平選手に注ぎ込んだそうです。
たとえば夜勤の週になると土曜日の朝に自宅へ帰るわけですが、そのまま寝ずに野球の練習へ行っていました。それが生活スタイルになっていたので、当時はその状況を何とも思いませんでした。自分の睡眠を削ってでも、できるかぎりのことはしてあげたかった。翔平には悔いの残らないように野球をやらせたかったですし、私自身もそうしたかった 【引用元:東洋経済ONLINE】
金ケ崎リトルシニアでの監督
大谷徹さんは、トヨタ自動車東日本で働きながらコーチや監督として、大谷翔平選手が小学2年生の時から「水沢リトル」で、そして中学生では「一関リトルシニア」で指導をしてきました。
2014年には、「金ケ崎リトルシニア」を有志と共に立ち上げ、2016年にはトヨタ自動車東日本を退職し、「金ケ崎リトルシニア」の監督として野球指導に専念されるようになりました。
「金ケ崎リトルシニア」ですが、中学生の硬式野球チームで、OBには甲子園出場者も多い、強豪チームです。
花巻東高校を卒業して、アメリカの名門スタンフォード大へ進学する佐々木麟太郎選手もOBの一人です。
チームのOBで、花巻東に進学した田代旭(3年)、宮沢圭汰(3年)、熊谷陸(2年)、佐々木麟太郎(2年)の4人は23日に行われたセンバツ1回戦の市和歌山戦で先発出場を果たした。
【引用元:スポニチアネックス】
「金ケ崎リトルシニア」は室内練習場も完備しており、中学生の野球チームとしては、設備も充実しています。
2021年冬季から当チーム専用の室内練習場がオープンいたしました。冬の季節や雨天時なども硬式ボールを使った練習が思う存分できるようになりました。【引用元:金ヶ崎リトルシニア公式】
大谷徹さんの指導方針は「子供たちは成長段階にあり1年ずつ体も精神的な部分も変わっていく。体力づくりと精神面を含めた中での礼儀、あいさつ。そこを磨ければと思っています」と述べているように野球の技術だけでなく精神面も重視しているようです。
決して勝利を第一に求めない育成重視の指導方針で、ベンチ入りの選手全員を試合に使ったり、選手が楽しめるということも心がけています。
練習試合や地域の大会では「できれば全員を使いたいと思っています」と25人のベンチ入り選手をできる限り起用する。目まぐるしい交代になっても「やっぱり、野球は試合に出ないと面白くないですよね」とプレーを楽しむ原点を忘れない。 【引用元:スポニチアネックス】
大谷翔平の父親(大谷徹さん)の噂について検証!震災・離婚?
大谷翔平の父親で検索すると上の画像のような検索結果が出てきます。
大谷翔平の父、甲子園、トヨタ、職業は今までの記事で述べたように何となくわかりますが、「亡くなった」「震災」というのは一体何なんでしょう。
またこれ以外にも、「離婚」などという関連検索ワードも出てきていますので、それについても調べてみました。
「大谷翔平 父 亡くなった」「大谷翔平 父 震災」について
「大谷翔平 父 亡くなった」「大谷翔平 父 震災」についてですが、大谷翔平選手の家族が東日本大震災で被災したり、ご両親のどちらかが亡くなったという噂から出てきたものと思われます。
このような噂が出てきた背景には、大谷翔平選手と同じく岩手県出身であり、高校野球で注目された選手たちの中に、実際に震災で家族を失ったケースがあったことが考えられます。
特に、プロ野球選手である佐々木朗希選手が東日本大震災で父親と祖父母を亡くし、母子家庭で育ったという事実が、何らかの形で大谷翔平選手と混同されてしまった可能性があります。
また、大谷翔平選手自身が岩手県花巻東高校出身で、東日本大震災の時期に高校生だったため、震災に関して何らかの影響を受けたことは確かです。
しかし、大谷翔平選手やそのご家族が直接的な被害を受けたり、ご両親のどちらかが亡くなったという報告は一切なく、完全なる誤報です。
「大谷翔平 父 離婚」について
「大谷翔平 父 離婚」については、大谷翔平選手の両親である大谷徹さんと大谷加代子さんが離婚しているという噂です。
実際には、大谷翔平選手のご両親が離婚しているという情報は完全なる誤報であり、二人は変わらず結婚生活を送っておられるのです。
この噂は、大谷翔平選手が2023年WBC出場のため、アメリカからプライベートジェットで日本へ帰国した際に、名古屋での壮行試合に合わせて侍ジャパンの練習に参加する予定があったにもかかわらず、なぜか羽田空港に立ち寄ったことから始まりました。
この立ち寄りは都内の自宅に寄るためで、そこで大谷翔平選手は母・大谷加代子さんと共に時間を過ごしたと考えられています。
大谷加代子さんが大谷翔平選手の渡米中には岩手県に戻っており、大谷翔平選手が帰国すると、東京の自宅でサポートをするという形をとっていたため、大谷徹さんと大谷加代子さんが別居しているという噂になり、そこから離婚していると話に飛躍したと思われます。
その他にも大谷徹さんと大谷加代子さんのメディアへの露出が減ったことも離婚と噂される一因になったようですが、実際は息子の夢でもあったWBCの舞台で、野球のことだけに集中してもらいたいという思いと大谷家ならではのルールがあったそうです。
「今回のWBCでは、大谷の両親や家族への取材はNGです。その点はかなり厳しく周知されています。実際は、大谷の家族も東京ドームに足を運んで観戦していますが、間違っても映り込んだりすることがないようお達しが出ています。万一、家族に接触したことがわかったら、そのメディアは大谷本人への取材機会を失ってしまうと思います」 【引用元:NEWSポストセブン】
実際に、2024年のドジャース開幕シリーズには、大谷徹さんと、大谷翔平の妻の真美子さん、大谷加代子さんの3人で、ドジャースのお揃いのユニフォーム姿での観戦風景がみられました。
大谷翔平の父親(大谷徹さん)まとめ
項目 | 詳細 |
---|---|
名前 | 大谷徹(おおたにとおる) |
生年月日 | 1962年 |
出身地 | 岩手県北上市和賀町 |
学歴 | 岩手県立黒沢尻工業高等学校卒業 |
職歴 | 三菱重工横浜(現三菱重工East硬式野球部)で社会人野球選手として活躍。三菱重工横浜野球部を引退後、トヨタ自動車東日本に転職し工場勤務。金ケ崎リトルシニアの監督として野球指導に専念。 |
身長 | 182cm |
スポーツ経歴 | 中学時代は陸上部に所属し、三種競技で県大会入賞。野球部に転向後、エース兼4番打者として活躍。社会人野球では外野手として1、2番を打つ速さを活かしたプレイスタイルが特徴。 |
プロ野球選手への道 | 社会人野球を経てプロ野球選手を目指すも、24歳で戦力外通告を受け引退。引退後、システムエンジニアとして勤務しつつ、野球指導者の道へ。 |
家族 | 加代子さん(妻)と結婚し、2男1女を持つ。大谷翔平選手の野球の才能を見極め、熱心に指導。 |
野球指導者として | 水沢リトル、一関リトルシニアでコーチを務め、その後金ケ崎リトルシニアを立ち上げ。 技術指導だけでなく、選手の人間性や礼儀を磨くことにも重点を置く。 |
【関連記事】
【関連記事】