今回は、世界で活躍する大谷翔平選手の母親、大谷加代子さんの身長や年齢、旧姓やバドミントン選手だったころの活躍ぶり、そして焼肉屋でパートをしていた話まで調べてみました。
その他にも、大谷加代子さんの生い立ちから現在に至るまで、どんな環境でどのようにして大谷翔平選手を育て上げたのか、その素敵なエピソードも深掘りしていきたいと思います。
スーパースター、大谷翔平選手の母親としてだけではなく、一人の女性として、また一人のアスリートとしての大谷加代子さんの魅力に迫ります。
目次
大谷翔平の母親(大谷加代子)のwiki風プロフィール
プロフィール | 詳細 |
---|---|
生年月日 | 1963年 |
出身地 | 神奈川県横浜市旭区 |
身長 | 170cm |
スポーツ歴 | 小学5年生からバドミントンを始め、中学3年生の時には神奈川県代表として全国大会に出場。団体戦で準優勝。 |
学歴 | 神奈川県立横浜立野高等学校卒業 |
職業 | 高校卒業後、三菱重工横浜に就職。バドミントンを続けながら勤務。後に岩手県水沢市内の焼肉店でパートとして勤務。 |
結婚・家庭 | 大谷徹と結婚後、三人の子供をもうける。長男、長女、そして次男である大谷翔平選手が生まれる。 |
旧姓 | 熊沢 |
特記事項 | 厳しい練習にもかかわらず、インターハイで大きな成績を残せなかったが、バドミントンへの愛情は変わらず、社会人としても競技を続ける。国体・五大都市大会等に出場。 |
大谷翔平の母・大谷加代子の身長、年齢は?バドミントン選手だった?
大谷翔平の母親・大谷加代子の身長は170cmで年齢は?
大谷翔平選手の母親である大谷加代子さんは、1963年に神奈川県横浜市旭区で生まれ、年齢は2024年現在61歳です。
血液型は不明ですが、なんと大谷加代子さんの身長は170cmです。
「親族はみな、大きいんですよ。私は3人姉妹で、その中で姉は低い方ですけど、それでも167、8センチありますからね。私と妹は170センチくらい。で、旦那さんたちはみな、180センチ以上あるんです」(加代子)【引用元:日刊ゲンダイ】
大谷翔平の母親・大谷加代子はバドミントン選手でインターハイ出場
小学5年生の時からバドミントンを始め、中学3年生の時には神奈川県代表として全国大会に出場し、団体戦で準優勝したり、小さい頃から抜群の運動神経を発揮していました。
中学時代はバドミントン部に所属。3年時、神奈川県代表のメンバーに選ばれ、全国大会へ。団体女子の部で準優勝した。
このとき敗れた相手は後に92年のバルセロナ五輪に出場した陣内貴美子(51)のいた熊本県だった。全国大会決勝も含め、同学年だった陣内とはこの後も何度か対戦することになる。
【引用元:日刊ゲンダイ】
中学卒業後は、当時バドミントンの強豪だった神奈川県立横浜立野高等学校に進学しました。
横浜立野高校での練習はかなり厳しく、朝早く起きて、学校へ行き朝練をして、放課後も夜遅くまで練習して、休日も休みはなかったそうです。
立野高校へは越境入学。横浜市旭区の自宅から電車とバスを乗り継いで1時間ほどかかったものの、毎朝5時台の始発に乗り、授業の前に1時間ほど朝練。放課後も夜7、8時まで練習して、帰宅は9時ごろになった。土日祝日も休みはなかった。 【引用元:日刊ゲンダイ】
しかし厳しい練習をしてもインターハイでは、結果を残せなかったですが、バドミントンは好きで、高校卒業後も、竸技を続けたいと希望していました。
「練習は厳しかったです。それでもインターハイでは1回か2回勝っても、なかなか上には行けませんでした」と加代子は振り返る。 【引用元:日刊ゲンダイ】
高校卒業後は、就職して、そこでバドミントンを続けていくことになります。
大谷翔平の母親・大谷加代子の職業は?焼肉屋でパート?
大谷翔平選手の母親、大谷加代子さんの職業や職歴ですが、バドミントンをしながら働いたり、パートを長く続けたり、様々なことを経験しています。
大谷翔平の母親・加代子は三菱重工横浜でバドミントンをしながらの勤務
大谷翔平の母親・加代子さんの職業ですが、横浜立野高校を卒業後は、三菱重工横浜に就職しました。
立野高校に近い三菱重工横浜にはクラブチームがあり、立野高校バドミントン部の顧問もよく知っていた。同じバドミントン部の生徒と一緒に入社試験を受け、三菱重工横浜に就職した。【引用元:日刊ゲンダイ】
三菱重工横浜では、毎日バドミントンの練習を行っていたわけではなく、仕事もフルタイムで働いていました。
ちなみに、三菱重工横浜では勤労部安全保安課に所属しており、加代子さん曰く「フツーのOLとほとんど変わらない生活。」を送っていたそうです。
バドミントンに力を入れている企業は、全国を見渡しても限られる。三菱重工横浜も野球ほど力を入れていたわけではなく、練習は平日の2日間と土日。平日は夕方、就業時間後に行っていた。成績は社会人大会の県予選でベスト4に入るくらい。全国大会に出られるかどうかというチームだった。加代子は勤労部に勤務し、「フツーのOLとほとんど変わらない生活」を送っていた。【引用元:日刊ゲンダイ】
上記のインタビューでは、県予選でベスト4と言っていますが、国体や、国際大会に神奈川代表として出場したこともあるようです。
1982年 神奈川県立立野高校卒 三菱重工/横製入社勤労部安全保安課に配属。横製バトミントン部に所属し、国体・五大都市大会等に出場し、1986年の結婚まで所属して同部で好成績を残す。
1983年 ヨネックスカップジャパンオープンという国際大会に神奈川代表として出場。【引用元:長機会HP】
大谷翔平の母親・加代子さんは23歳の時に大谷徹さんと結婚し、徹さんの故郷岩手に移住するということで、三菱重工横浜を退職します。
大谷翔平の母親・加代子は焼肉屋のパートや内職も経験!
岩手に移り住んでからは、子どもたちが小さい頃は家で内職をして家計を支え、子どもたちが手が離れる頃に外での仕事を始めました。
大谷翔平が小学校に入学するタイミングで、岩手県水沢市内(現奥州市)の焼肉店でパートとして働き始めました。
その後、約17年間にわたり、週4から6日の勤務で、時には1日8時間勤務することもあったそうです。
大谷翔平がプロ野球で活躍してからもパートで働いており、息子には頼らないというポリシーがあったそうです。
加代子は大谷が小学校に入ると同時に、水沢市内の飲食店でパートを始めた。週に4~6日、午前中に入って4時間働くときもあれば、8時間の日もある。 【引用元:日刊ゲンダイ】
しかし、2018年、大谷翔平がアメリカのメジャーリーグ、エンゼルスに入団し渡米することになった際、母・加代子さんは焼肉屋のパートの仕事を辞め、息子の全面的なサポートに回ることを決めました。
もともと焼肉屋でパートとして働いていた母だったが、アメリカに渡る息子を全面的にサポートするため、体制を整えたという。
「翔平がアメリカに行くときだったかな。バックアップするため、やることも出てくるだろうからパートは辞めました」(大谷の父) 【引用元:週刊女性PRIME】
大谷加代子さんは、健康管理にも気を遣い、手作りの食事を冷凍して届けるなど、栄養面でのサポートも行っています。
母もまた、大谷を献身的に支えてきた。オフシーズンには、帰国した息子の住むマンションに手作りの料理を冷凍して持って行くこともあるそう。父にそのことを尋ねると……。
「よく知ってますね(笑)。外食でコロナに感染したら困るし、妻は健康に気を遣ってますから。翔平の身体が心配なんですよね」 【引用元:週刊女性PRIME】
大谷翔平の母親の旧姓は?亡くなったという噂や実家が金持ちという噂は?
大谷翔平の母親、大谷加代子さんの名前で検索すると上の画像のような検索結果が出てきます。
パートやバドミントンは今までの記事で述べたように何となくわかりますが、「亡くなった」というのは一体何なんでしょう。
また「旧姓」「実家 金持ち」などという関連検索ワードも出てきていますので、それについても調べてみました。
大谷翔平の母親・大谷加代子が亡くなったという噂は?
「大谷翔平 母 亡くなった」についてですが、「大谷翔平 父 亡くなった」という噂もあり、このような噂が出てきた背景には、大谷翔平選手と同じく岩手県出身であり、高校野球で注目された選手たちの中に、実際に震災で家族を失ったケースがあったことが考えられます。
特に、プロ野球選手である佐々木朗希選手が東日本大震災で父親と祖父母を亡くした事実が、何らかの形で大谷翔平選手と混同されてしまった可能性があります。
しかし、大谷翔平選手のご両親が亡くなったというのは、完全なる誤報で、今ももちろん健在です。
大谷翔平の母親・大谷加代子の旧姓は「熊沢」!
「大谷加代子 旧姓」についてですが、大谷加代子さんの旧姓は、「熊沢」です。
母 大谷(旧姓熊沢)加代子:
1982年 神奈川県立立野高校卒 三菱重工/横製入社勤労部安全保安課に配属横製バトミントン部に所属し、国体・五大都市大会等に出場し、1986年の結婚まで所属して同部で好成績を残す。【引用元:長機会HP】
熊沢という名字は、47都道府県の中で、大谷加代子さんの出身地・神奈川が1番多いそうです。
大谷翔平の実家は金持ちなの?
大谷翔平の実家が金持ちかどうかについては、実際のところ、大谷翔平の父親の徹さんは元々トヨタ自動車東日本の工場で働く会社員であり、母親の加代子さんも、内職をしたり、パート勤務をしたりということで、金持ちというわけではないようです。
つまり、大谷翔平選手の家庭はごく普通の一般家庭ということになります。
大谷徹さんは若い頃から野球に打ち込んでおり、社会人野球を続けていたことから、お金を稼ぐことよりもむしろスポーツに情熱を傾ける日々を送っていたと考えられます。
もちろん、トヨタ自動車東日本での勤務経験もあるため、決して貧しいわけではなかったでしょうが、子どもが三人いる家庭で、特に余裕があるわけではなかった可能性もあります。
さらに、大谷翔平の実家が豪邸かどうかに関しても、一般的な家庭のものであり、特別に目立つような豪邸ではありませんでした。
実家がテレビに映った際には、木材を使用した温かみのある2階建の家として紹介されており、大谷徹さんは子どもたちがのびのびと成長することを望んでいたようです。
余談ですが、大谷翔平選手が提案した実家のリフォームについても、両親は大谷翔平のお金を使うことを拒否し、自分たちの手でリフォームを行ったといいます。
この家も建てて30年近くたったから屋根と外壁、内装をリフォームはしましたけど、翔平がリフォーム代を払ったわけじゃないですよ(笑)。私も家族も大きな家に住みたいとは思いませんし。家族に車もプレゼントしてくれましたが、全部、賞品でいただいた車ですし。私のと(彼の)姉の車はオールスターのときのだったかな? 兄の車も何かの副賞ですよ 【引用元:週刊女性PRIME】
さらに、大谷翔平が実家の建て替えを両親に提案した時も、おじいさんから「ちゃんと貯めておきなさい」と言われたそうで、これらは、大谷翔平の金銭感覚にも影響を与えていると思われます。
「まだ日本球界にいた頃、大谷選手が、両親のために実家を建て替えようとしたことがあったそうです。でも、そのときおじいさんから、“両親も元気で家もまだ古いわけでもないんだから、そんなふうにお金を使うもんじゃない。ちゃんと貯めておきなさい”と叱られたことがあったそうです。
【引用元:NEWSポストセブン】
大谷翔平の母親・加代子のなれそめは三菱重工横浜での職場結婚?
大谷翔平の母親・加代子と旦那との出会いは三菱重工横浜!
大谷翔平さんの母親・加代子さんは高校を卒業後は、三菱重工横浜製作所に就職、そこでバドミントンを続けられながら、将来のご主人である大谷徹さんと出会いました。
ちなみに大谷加代子さんが1年目の時に、知り合ったそうです。
野球部にいた徹と知り合ったのは入社1年目だった。
「女子は50人くらい新人がいました。野球部は社を挙げて応援していましたからね。当時はナイターでしたので、試合は6時くらいから始まっていたと思います」 【引用元:日刊ゲンダイ】
具体的には、野球部の結団式などの酒の席で知り合い、そこから仲を深めていったようです。
「新入社員の男子は応援部、女子はチアガールのようなものをやるのが義務付けられていたのです。で、結団式というか、集まりの中で知り合いました。応援される方と応援する方で。結団式とか壮行会とか、酒の席があったりして、そこで、です。当時、僕は入社2年目でした」 【引用元:日刊ゲンダイ】
大谷翔平の母親・加代子は出会いから5年目の23歳で結婚!
そして初めて出会ってから5年目の1986年12月、父親の大谷徹さんが24歳、母親の大谷加代子さんが23歳の時に結婚することになりました。
そして1987年に長男、1992年に長女 、1994年に次男大谷翔平選手が誕生します。
大谷翔平の母親(大谷加代子さん)まとめ
項目 | 詳細情報 |
---|---|
生年月日 | 1963年 |
出身地 | 神奈川県横浜市旭区 |
身長 | 170cm |
大谷加代子さんの家族構成 | 3人姉妹の中の一人。本人及び妹は170cm、姉は約167-168cm。夫及び夫側の家族も180cm以上の身長。 |
学生時代のスポーツ | 小学5年生からバドミントンを始め、中学3年生で神奈川県代表として全国大会に出場し、団体戦で準優勝。92年バルセロナオリンピック出場の陣内貴美子とも対戦経験あり。 |
高校 | 神奈川県立横浜立野高等学校。越境入学し、朝早くから夜遅くまでの厳しいバドミントン練習に励むが、インターハイで目立った成績は残せず。 |
職歴 | 三菱重工横浜製作所に就職後、バドミントン部に所属。勤労部安全保安課に配属され、一般のOLとしての生活と平行してバドミントンを続ける。国体・五大都市大会等に出場。 |
結婚後の生活 | 大谷徹さんとの結婚後、岩手に移住。子供たちが小さい頃は家で内職をして家計を支え、その後、大谷翔平が小学校に入学したタイミングで、岩手県水沢市内の焼肉店でパートとして勤務。 |
子育てとサポート | 3人の子供を育てながら、大谷翔平の野球及び学業のサポートに尽力。大谷翔平がメジャーリーグへの挑戦を決意した際、焼肉店のパートを辞め、息子のサポートに専念することを選択。 |
旧姓 | 旧姓は熊沢。 |
健康管理とサポート | 大谷翔平がアメリカでの生活を始めて以降、手作りの食事を冷凍して届けるなど、遠くからでも息子の健康管理とサポートを続けている。 |
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