今回は、中谷潤人さんの家族構成とその生い立ちについて掘り下げていきます。
中谷潤人さんといえば、WBC世界バンタム級王者、元WBO世界フライ級王者、元WBO世界スーパーフライ級王者、世界3階級制覇王者という日本を代表するプロボクサーです。
中谷潤人さんがどのような環境で育ち、どんな影響を受けてプロボクサーとしての道を歩んできたのか気になりませんか?
目次
中谷潤人の家族構成!父親・母親・弟の4人家族
中谷潤人の家族構成は「父親・母親・本人・弟」の4人です。
中谷潤人の生い立ちや学歴!15歳で単身渡米後、人の縁で王者に!
- 名前(本名):中谷 潤人
- 生年月日:1998年1月2日
- 身長:173㎝
- 体重:52.5kg
- 血液型:O型
- 出身地:三重県東員町
- 学歴:小学校不明→東員町立東員第二中学校
中谷潤人さんは1998年1月2日に三重県の東員町で生まれました。
中谷潤人さんの出身の小学校は公表されていません。
しかし、東員町立東員第二中学校を卒業していることから、笹尾西小学校、笹尾東小学校、または城山小学校のいずれかに通っていた可能性があります。
中谷潤人さんは、小学3年生の時に極真空手を始めましたが、体が小さく、試合で一度も勝つことができなかったそうです。
それでも中谷潤人さんは諦めずに空手を続け、小学6年生の時には、両親が経営するお好み焼き屋の常連客にボクシングを勧められ、一日体験に参加し興味を持ちます。
「階級制のボクシングを試したらどうだろう」。空手で勝てないという話を聞いていたお客さんにある日、そう提案された。近隣の桑名市でジムを営む石井広三会長の知り合いであるという。ボクシングか……。格闘技は総合もボクシングもよく見ていて、ライトを浴びて戦う姿は純粋にかっこいいと感じていた。小学6年生の夏、「一日体験」を受けてみることにした。
【引用元:TheBoxers】
中谷潤人さんは、東員町立東員第二中学校に入学後、 元OPBF東洋太平洋 スーパーバンタム級王者である石井広三さんが会長を務める、KOZOジムに入門し、ボクシングを本格的に始めました。
「大好きな広三会長と一緒に世界チャンピオンになる」というのが、当時の中谷潤人さんの夢でした。
小学6年のとき、石井との出会いでボクシングの楽しさを知った中谷は、中学2年で出場したU-15全国大会(32.5kg級)で、初出場初優勝した。「大好きな広三会長と一緒に世界チャンピオンになる」というのが少年の夢だった。
【引用元:週プレNEWS】
また、中谷潤人さんは、中学1年生の時には、「夢 フライ級世界チャンピオン」という目標を紙に書き、壁に貼って自分を奮い立たせていたそうです。
亡き恩師、石井会長と誓った夢がある。三重県東員町の自宅横の練習場の壁に、中谷は「夢 世界フライ級チャンピオン」と記した黄色の紙を貼った。それを見た笑顔の石井会長の一言を忘れることはない。
「フライじゃなくて、スーパーフライのほうがいいんだ。スーパーって付いとるほうが、かっこいいだろ」【出典元:中日スポーツ】
中学生の頃の中谷潤人さんの目標は、後に実現することになります。
中谷潤人さんは、中学2年の時に32.5kg級・3年生の時に40kg級でU-15大会を連覇しました。
しかし、2012年7月5日、KOZOジムの会長である石井広三さんが交通事故で急逝しました。
プロボクシング元東洋太平洋スーパーバンタム級王者で、3度の世界挑戦経験があるKOZOジムの石井広三(いしい・こうぞう)会長が死去していたこと6日、分かった。日本ボクシングコミッションに、5日に亡くなったと連絡が入った。34歳の若さだった。関係者によると交通事故が原因という。
【引用元:日刊スポーツ】
中谷潤人さんは新たな指導者を求めて、東員町立東員第二中学校を卒業後、高校へ進学をせずに15歳で単身アメリカへ留学する決意をします。
高校に行かないことは自分で決めました。周りから「高校は行っておいた方がいい」などとたくさん言ってもらいましたが、父(澄人さん)からは「人と違うことをしろ」と言われ、そのマインドを忘れなかった。僕の人生ですし、悔いなくやりたいと思ったんです。
【引用元:スポーツ報知】
不安も多かったようですが、家族に見送られる際励ましの言葉を受け、新たな挑戦へと旅立ちました。
15歳になったばかりで米国に行った時は、初めこそ不安はありました。最初は3か月。家族が見送りに来てくれました。「体に気をつけて」「無事に、いい練習をしてこい」と励ましてくれたのはうれしかったけど、そんな長い期間、家を離れたことがなかったから、飛行機に乗った時、寂しい気持ちが出てきました。でも米国に着いたらすぐにワクワクしてきたんです。
【引用元:スポーツ報知】
アメリカでは、ボクシングトレーナーであるルディ・エルナンデス氏や岡部大介氏からボクシングの指導を受け、中谷潤人さんは、技術と精神の両面で成長を遂げます。
中谷潤人さんは、プロデビューできる17歳まで日米間を往復してトレーニングを積みました。
およそ10年前。最初の恩師、石井広三の急逝後、中谷は新たな指導者を求めて渡米しようと考えた。KOZOジムに通っていた頃、在籍していたプロ選手がロスで合宿していたことを思い出し、「世界チャンピオンになる目標を最短で叶えるには、ボクシングの本場で修行するのが一番」と思い立ったのだ。
両親を説得し、最初は石井も現役時代に師事したマック・クリハラトレーナーの下で3週間指導を受け、現地でアマチュア大会にも出場し勝利した。その後、伝手を頼り紹介してもらったのがルディ・エルナンデスだった。
【出典元:週プレNEWS】
プロになる前後の数年、中谷潤人さんは、ファミレスでバイトをしながらボクシングしていたそうです。
プロになる前後の数年、ファミレスでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。仕事にはシフトがあり、急にスパーリングが入っても変更できないはずだが、休ませてもらえた。所属ジムの村野健マネジャーは「みんなが協力的なんです。普段から頑張っているのを知っているから」と明かした。
【引用元:スポーツ報知】
そして中谷潤人さんは、16歳の時に米滞在中に紹介されたM.Tボクシングジムに入門しました。
異色のキャリアを支えたのは、中谷本人も家族も「出会いに恵まれた」という縁だった。米滞在中に紹介された現所属のM・Tジムは、2001年に相模原市で開業した新興勢力。村野健マネジャー(55)を中心に金の卵を全力でサポートしてくれた。
【引用元:中日スポーツ】
M.Tボクシングジムではプロとしての基礎を学び、17歳の2015年4月26日に岐阜商工会議所で糸賀純一とのミニマム級4回戦でプロデビューを果たし、1回1分33秒でTKO勝ちを収めました。
中谷潤人さんは、ファンから「愛の拳士」と呼ばれ愛されています。
愛の拳士 三重の実家の店の常連客からやさしい風ぼうから、「愛の拳士」と命名される。知人のイラストをトレードマークに約200人の三重後援会がある。
【引用元:日刊スポーツ】
その後の活躍も目覚ましく、2016年12月23日には全日本新人王を獲得し、初めてフライ級日本ランク入りも果たしました。
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2017年には後楽園ホールでユーリ阿久井政悟との戦いで初代日本フライ級ユース王座を獲得し、最優秀選手賞と月間賞新鋭賞を受賞。
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2018年には小坂駿との日本フライ級王座挑戦者決定戦に勝利し、2019年には日本フライ級王座を獲得。
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その後、黒田雅之が王座を返上したため、望月直樹との王座決定戦で勝利し、王座を守り続けました。
そして中谷潤人さんは、2020年には中学生の時に目標にしていた、WBO世界フライ級王座をついに獲得、続いて2021年にはその王座の初防衛に成功しました。
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2022年には2度目の防衛戦を成功させた後、スーパーフライ級に転向し、2023年にWBO世界スーパーフライ級王座を獲得しました。
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そして、2024年には中谷潤人さんは、世界3階級制覇を成し遂げました。
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中谷潤人さんはWBC会長から緑のベルトを贈呈された翌日、故郷の三重県へ戻り、親戚に勝利を報告しました。
その後、亡き恩師(石井広三さん)の墓参りをし、4本のWBCのレプリカベルトを供えました。
中谷潤人さんが中3の時、事故で亡くなった恩師、石井広三さんの「俺はWBCが好きだから、WBCのベルトを取れ。そして一緒にもらえるリングをくれ」という言葉に応えて、ついに約束を果たしたのです。
師匠は「世界王者になるんだぞ」と毎日のように言いながらミットで受けたという。「俺はWBCが好きだから、WBCのベルトを取れ。そして一緒にもらえるリングをくれ」と、恩師の思いを聞いていた中谷は「WBC王者になる」と紙に書いてボクシングに打ち込んだ。そして今回、中3の時、事故で34歳の若さで急逝した恩師との“約束”をついにかなえた。スライマン会長から受け取った、貴重な4本のWBCのレプリカベルトを供えた中谷(以下省略)
【引用元:スポーツ報知】
中谷潤人の父親はどんな人?常に子供ファーストな理解ある父
中谷潤人さんのお父さんは、澄人という名前です。
就職して直ぐの5月、19歳で私は結婚し、潤人が生まれたのは21の時で、下の龍人は長男の2学年下です。
【引用元:現代ビジネス】
お父さんは、1998年に大阪で料理の修業を積んだ後地元三重に戻り、29歳の時に「十兵衛」というお好み焼き屋を開業します。
お父さんは、お店を通して、単にお金を稼ぐだけではなく地域の人々とのつながりを大切にし、子供たちには人との関わりこそが真の財産であると教えたいと願っていました。
当初、子供たちをお店に入れることを控えていましたが、仕事を終えた後、子供たちがゲームを手に寝落ちしている姿を見て、寂しい思いをさせていると反省します。
そのため、子供たちがお店に下りてくることができるようにしたそうです。
結果、お客さんたちと交流することで、家族の絆と地域社会とのつながりが深まりました。
現在はマネージャーとして兄を支える龍人さんは、当時を振り返る。
「兄弟でしていることといえば、ゲームをするか、5時からのディズニー・チャンネルを見るか、くらいでしたね。たまに映像がうまく映らなくて、そろっと下に“助け”を求めにいくんですけれど、両親はおもてに立ってお客さんを迎えているもので、声をかけるタイミングをさがすんです」
しかしある日、仕事を終えて2階に上がった澄人さんは、ゲーム機をもったまま眠る息子たちの姿を目にして、悔いた。子供たちに、寂しい思いをさせてしまっている。
「これではいかん、と。それで、“下りてきなさい”と言ったんです。そうしたら、お客さんに宿題教えてもらったりして、すごくいい雰囲気ができました」
【引用元:TheBoxers】
お父さん自身が一般的なサラリーマンの家庭で育ち、社会の常識に疑問を持ち育った経験から、子供たちには自分が本当に好きなことを見つけ、自由に選ぶようにと願っていました。
それでお父さんは、子供たちが夢中になれることがないか、店の客にアドバイスを受けます。
中谷潤人さんが小学校3年生から極真空手を始めたのも、お店の客である地元の極真空手の館長の勧めでした。
ちなみに子供たちが商売をすることになれば、数字に強い方が良いと考え、公文式の先生に預けることもありましたが、子供たちは興味を失い駄菓子屋でさぼっていたそうです。
『十兵衛』を訪れる人生の大先輩たちが彼らにかけてくれる言葉はありがたく、ヒントにあふれた。将来もし商売をするようなら数字には強い方がいいかも、と、お客さんである「公文式」の先生に預けたこともあった。最初は関心を示したかのようだった二人はほどなく、駄菓子屋で油を売っていたことが発覚する。
【引用元:TheBoxers】
そのあと、中谷潤人さんの体が小さく空手で勝てないという話を聞いていた店の客が、「階級制のボクシングを試したらどうだろう」と提案してくれました。
中谷潤人さんの「愛の拳士」というニックネームも、お店の常連さんが笑顔の多い中谷潤人さんをみて名付けたそうです。
本人がデビューから大切にしているのは「愛の拳士」。ボクサーの異名は荒々しく、いかついものが多いが、なぜ「愛」の文字を使用しているのか。
「デビューした時から皆さんの応援を受け、その気持ちをボクシングで恩返しするという意味が込められているんです」
名付け親は母・府見子さん、父・澄人さんが地元・三重で経営していた飲食店の常連客。小学3年で空手を始め、中学1年生でボクシングの世界に入ってから今に至るまで、常に周囲の温かいサポートに助けられてきた。そんな環境もあり、中谷は成長する中で自然と「感謝」の気持ちを大切にするようになった。
【引用元:東スポWEB】
お父さんと店の客との縁が、中谷潤人さんの将来を切り開いてくれたんですね。
お父さんは、中谷潤人さんが高校に進学せずプロボクサーとしての道を選んだ時も、周囲は高校は卒業した方が良いと言う中、「人と違うことをやれ」と言って背中を押してくれました。
就職して直ぐの5月、19歳で私は結婚し、潤人が生まれたのは21の時で、下の龍人は長男の2学年下です。人生において自分が失敗したこと、無駄だと感じたことを子供たちには絶対にさせたくなかった。そういう意味で、誰にも負けない自分を作れ。没頭できるものを見付けて、邁進しろ、と。
それで、『人と違うことをやれ』と言ったんですよ。潤人が14歳にして下した決断が、私の言葉を受けてのものであるなら、反対は出来ませんよね」
【引用元:KODANSHAホームページ】
また、親元を離れて相模原でひとり暮らしをしていた中谷潤人さんは、過酷なトレーニングと不安定な食生活もあり、貧血で倒れてしまったことがあります。
そこでお父さんは、お好み焼き店「十兵衛」を閉店し、家を引き払い、相模原で施工関係の会社を起業、息子をサポートすることにしました。
最初は親元を離れてひとり暮らしをしていた中谷は、過酷なトレーニングと不安定な食生活もあり、貧血で倒れてしまったこともあったそうだ。父は相模原で施工関係の会社を興した。
【引用元:週プレNEWS】
また、2019年には、中谷潤人さんがオーナーとして、弟の龍人さんが店長を務める「とん丸」というトンテキ専門店を開店させましたが、お父さんはお好み焼き屋の経験を活かし、子供たちをサポートしました。
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しかし、残念なことに新型コロナウイルスの影響で2020年に閉店。
この店では、両親がかつて営んでいたお好み焼き屋で提供されていたトンテキを取り扱っていたそうです。
中谷潤人の母親はどんな人?勝負飯はオムライス!
中谷潤人さんのお母さんの名前は、府見子という名前です。
お母さんは、中谷潤人さんが減量で貧血になった際に適切な食事メニューを作成するなど、健康面を支えてきました。
お母さんは、インタビューで中谷潤人さんが反抗期を迎えることなく育ったことや、寒い日には、そっと背中に上着をかけてくれる優しい子供だったと語っています。
母・府見子さんが「反抗期はなかった」という22歳。寒い日には、そっと背中に上着をかけてくれる優しさがある。だが、ひとたびリングに上がると“変身”する。
【出典元:スポーツ報知】
2023年5月21日のWBO世界スーパーフライ級王座決定戦では、勝ち飯であるオムライスで中谷潤人さんを送り出しました。
中学卒業後、「強くなるため」に単身での米国修業に理解を示してくれた父・澄人さん、母・府見子さんは息子のために転職し、三重から神奈川に拠点を移してサポート。今回も父は雑炊などの減量リカバリー食、母は“勝ち飯”オムライスを作って息子を送り出した。
【引用元:スポーツ報知】
中谷潤人さんのためにお店を閉店させたり、転職したりするお父さんが注目されがちですが、お父さんの意見に反論せず、同じ方向を向いて、子供たちのサポートを惜しまないお母さん。
とても愛情深いお母さんであることがわかりますね。
中谷潤人の弟はどんな人?元料理人で兄のマネージャー
中谷潤人さんの弟さんは、龍人という名前です。
弟さんは、中谷潤人さんの2学年下です。
弟さんは、アマチュアボクサーとしても知られていて、15歳以下のカテゴリーで全国大会に準優勝するほどの実力を持っていました。
小学5年から中学3年まではアマチュアのボクシングジムに通い、日本協会主催のU-15全国大会で準Vの成績を持つ。ジムワーク中にはミットも担当する。
【引用元:日刊スポーツ】
弟さんは実家のお好み焼き店を手伝いながら、接客業への興味を深めました。
弟さんは、中学を卒業後は料理の道を志し、大阪の老舗和食店で働き始め、調理師免許を取得します。
2022年にはマネージャーライセンスも取得し、中谷潤人さんをサポートする役割を担っています。
中谷のマネジャーは実弟の龍人氏(24)が務める。M・Tジムの村野健会長から「もう少し(中谷を)サポートしてほしい」と勧められ、22年に日本ボクシングコミッション(JBC)のマネジャーライセンスを取得。同8月から中谷の米ロサンゼルス合宿にもフル帯同するなど常に練習と体重管理を担当している。
【引用元:日刊スポーツ】
さらに、スポーツマッサージの技術も身につけており、中谷潤人さんの疲れをとるために筋肉をほぐす手助けをしているそうです。
弟さんは減量食を作るなど食事の面からも中谷潤人さんを支え、一緒の食事を食べ一緒に生活して普段から話すようにしているので、中谷潤人さんの考えていることは大抵わかるそうです。
調理師免許も取得しており、米合宿中も一緒の家に暮らし、減量食を作る。龍人氏は「一緒の食事を食べ、一緒に生活して普段から話している。大体の気持ちは分かる」と自信の笑みをこぼす。
兄弟2人の時は中谷は寡黙になることが基本。いつも近くで中谷の心身を観察して負担軽減を意識する毎日。「兄は普通の人とは違う思いを持ってボクシングに取り組んでいる。尊敬し、誇りに思っている」。中谷の躍進には弟のサポートが不可欠だ。
【引用元:日刊スポーツ】
ボクシングの競技からは離れたものの、お父さんの会社も手伝っており、寝る間を惜しんで中谷潤人さんを支えているのだとか。
すごい兄弟愛ですね。
中谷潤人の家族構成まとめ
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家族メンバー | 特徴・役割 |
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父親(澄人) | 元お好み焼き屋の経営者。家族をサポートし、息子の独自の道を後押し。 |
母親(府見子) | 共にお好み焼き屋を経営。息子たちの健康と栄養を支え、深い愛情で接する。 |
中谷潤人(本人) | プロボクサー。幼少期からの格闘技の経験を生かし、世界的なボクサーに成長。 |
弟(龍人) | 元アマチュアボクサー、料理人。兄のマネージャーとして全面的にサポート。 |