この記事では、宮澤エマさんの家族構成や生い立ちについて詳しく紹介しています。
この記事を読むことで、宮澤エマさんがどのような家庭環境で育ち、どのようにして今のキャリアを築いてきたのか、さらに、宮澤エマさんの家族の経歴やエピソードは、非常に興味深い内容となっています。
ぜひ記事を読み進めて、宮澤エマさんの生い立ちや家族の魅力に触れてみてください。
目次
宮澤エマの家族構成!父・母・姉の4人
宮澤エマの家族構成は「父親・母親・姉・本人」の4人です。
母親:元内閣総理大臣の長女で日本初のトラベルジュエリー会社を設立
長女:超高学歴で3人の子供を持つアパレル会社CEO
次女:宮澤エマ本人
また、宮澤エマさんの「祖父母」はどんな方なのでしょうか?
祖母(母方):当時としては珍しい4年制大学卒の祖母
祖母(父方):図書館で働き退職後は市民劇団を立ち上げ。スターになる夢があった
宮澤エマの生い立ちや学歴!言葉の壁とミュージカルへの希望
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- 名前:宮澤エマ
- 本名:ラフルアー宮澤エマ(Emma Miyazawa La Fleur)
- 生年月日:1988年11月23日
- 身長:156㎝
- 体重:非公開
- 血液型:O型
- 出身地:東京都文京区
- 学歴:森村学園幼稚園→森村学園初等部→聖心インターナショナルスクール中等科→聖心インターナショナルスクール高等科→オクシデンタル大学宗教学専攻(大学3年生にケンブリッジ大学1年間留学)
宮澤エマの幼少期は父の仕事で渡米も現地の子と3ヶ月会話出来ず
宮澤エマさんは、1988年11月23日に東京都文京区で生まれました。
宮澤エマさんはハーフで、両親はアメリカ人の父親と日本人の母親で、本名は父親がフランス系カナダ人の血筋で「ラフルアー宮澤エマ」と言います。
――エマさんのお名前ですが、今回改めて苗字の英語表記を見ましたら、La Fleurとあって、発音的には“ラ・フラー”さんなのですね。 「そうなんです、英語にするとthe flower、“花”でして、父が1920年代にアメリカに移民したフランス系カナダ人の血筋なんです。日本の戸籍上も「宮澤エマ」なので芸能界に入って“ラフルアーさん”と呼ばれて新鮮だったんですけど、最近、“ラフルアー”をとることにしたんです」
【引用元:All About】
なお、宮澤エマさんは日本で生まれましたが、3歳の時に父親の仕事の都合でアメリカに行くことになり、幼稚園に入るまでの間、日本とアメリカを行ったり来たりする生活を送っていました。
ただし、アメリカに行った時は英語が全く話せなかったため、現地の子供たちとは最初の3か月間、全く会話ができなかったそうです。
私はアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、幼い頃から日本とアメリカを行き来していました。最初に日本で3年ほど暮らしてから渡米したときは、英語が出来なくて、3か月間一言も話せませんでした。幼稚園に通うため日本に戻った時、今度は日本語が出来なくなっていて3か月間話せなかったのを覚えています。
【引用元:東京ティーンコホート】
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帰国後、宮澤エマさんは1992年4月、神奈川県横浜市にある森村学園幼稚園に入園し、1995年3月卒園しました。
幼稚園では帰国直後、今度は日本語が分からくなっていたそうで、幼稚園の英語遊びをすることで、少しずつ日本語と英語の言語の壁を克服していきました。
宮澤エマの小学校時代はMay.jと同級生で歌やミュージカル大好き!
宮澤エマさんは1995年4月、森村学園初等部に入学しました。
あいつ今何してる? × Mayちゃん♡
森村学園の同級生 May J. & 宮澤エマ
“歌姫&元総理の孫”の素顔が‼︎ pic.twitter.com/KKdpeXIPZA— JJ (@RESORT_DIVER) June 14, 2016
宮澤エマさんの小学校時代は歌やミュージカルが好きで、家族と一緒にブロードウェイのミュージカルを鑑賞することが楽しみの一つでした。
また、学校では勉強よりも音楽や芸術に興味を持っており、放課後の時間は音楽の練習や演劇に費やすことが多かったです。
宮澤エマの中学時代は英語が出来ず学校に行きたくなかった
宮澤エマさんは1999年9月、東京都にある聖心インターナショナルスクール中等科に進学しました。
この学校は、両親が宮澤エマさんにバイリンガルになってほしいと願って選びましたが、宮澤エマさんは初めの3~4カ月は英語が難しくて「学校に行きたくない」と思っていたそうです。
バイリンガルになって欲しいという親の意向もあり、中学・高校は日本のインターナショナルスクールに通うことになったのですが、そのときには再び英語が出来なくなっていたので、すごく不安を覚えました。(中略)インターナショナルスクールに移ったときも、最初の3-4か月は本当にしんどかったです。「学校に行きたくない」という気持ちが強まっていました。
【引用元:東京ティーンコホート】
しかし、中学校1年生の夏休みには、1カ月間アメリカのサマーキャンプに無理矢理参加させられ、その後は英語に自信がついたとのことです。
親に無理矢理アメリカのサマーキャンプに入れられて、一か月間英語のみの環境でアメリカ人の子たちと暮らした結果、新学期になってから大きな自信に繋がった。そういう経験があったので、それ以降楽になったな、と何となく覚えています。
【引用元:東京ティーンコホート】
そして、学校生活も楽しくなり演劇部や合唱部に入り、バンドも組んでボイストレーニングを受けていました。
さらに、宮澤エマさんはマライヤ・キャリーやホイットニー・ヒューストンから影響を受け、さらにブラックミュージックにも興味を持ち始め、ブルースやジャズ、ソウルを聴くようになったそうです。
中学のときにマライア・キャリーやホイットニー・ヒューストンなどのディーバ系と言われるものに出会って、こんな歌い方があるんだと思って、凄く影響を受けて真似をしていました。そこでブラックミュージックを遡っていくとブルース、ソウル、ジャズとかに導かれた流れですね。
【引用元:日本ポピュラー音楽協会】
宮澤エマの高校時代はミュージカル舞台や歌手デビュー話があった
宮澤エマさんは2003年9月、聖心インターナショナルスクール高等科に内部進学し、2007年6月卒業しました。
宮澤エマさんの高校時代は合唱部と演劇部に所属し、ミュージカルの舞台に立つ機会がありました。
小学生の頃から憧れていて、高校でもミュージカルをやったりしていました。踊りはへたくそだったけれど、好きの一心で『ウェストサイド物語』でジェット団に絡んでいる女の子のエニバディズを演じたりしていました。
【引用元:All About】
また高校時代は、宮本亜門さんの弟と合唱クラブが一緒で、宮本亜門さんに歌を聴いてもらったことがありました。
ミュージカルに出るようになったきっかけは、高校時代、宮本亜門さんの弟さんとグリー(合唱)クラブで一緒になり、当時、亜門さんに歌を聴いてもらう機会があったんです。
【引用元:日刊SPA!】
そんな、宮澤エマさんは18歳の時に歌手デビューの話があったことをインタビューで語っていますが、最終的には大学進学を選んだため、高校時代は芸能活動を行っていません。
18歳の時に一度歌手デビューのお話をいただいたのですが、結局大学を選んで、在学中に別のものを見つけたら舞台や歌に対する私の気持ちはそこまでだと考えようと思ってたけど、やっぱりやりたいと思って日本に戻ってきたんです。
【引用元:All About】
ちなみに、高校時代の宮澤エマさんはぽっちゃり体型だったため、男子からはあまりモテなかったそうです。
宮澤エマは大学では「勉強嫌い」から「好きな物を学ぶのは楽しい」に
宮澤エマさんは2007年9月、アメリカのオクシデンタル大学宗教学専攻に入学し、2011年6月に卒業ました。
アメリカの大学では専攻を決めるシステムで、国際関係や歴史も考えましたが社会学の勉強になると思い、宗教を学ぼうと決めたそうです。
アメリカの大学では入学後、はじめの1、2年でいろいろな科目をとっていくなかで専攻を決めるシステムで、国際関係や歴史も考えましたが、社会学の勉強になると思って、宗教を学ぼうと決めました。
【引用元:All About】
宮澤エマさんは勉強が元々あまり好きではありませんでしたが「大学には行った方がいいだろう」という気持ちでアメリカの大学に進学しました。
ただ、宗教学を学び始めると、とてもおもしろく、初めて勉強が楽しいと思い、それまでは「自分は勉強ができない、だから嫌い」と感じていたのが、「好きなものを学ぶのは楽しい」に変わったそうです。
特に、宮澤エマさんにとって大きな変化のきっかけとなったのは、ある教授との出会いで、その教授は、たとえ解答が間違っていても「その考えはおもしろい」と言ってくれて、正解よりも考えることや発想力を認めてくれたそうです。
私、勉強があまり好きではなくて、それでも大学は行っておいたほうがいいだろうという感覚でアメリカの大学に行ったんです。そこで宗教学を学びはじめたら、とてもおもしろくて初めて勉強を楽しいと思えました。それまでの「自分は勉強ができない、だから嫌い」から「好きなものを学ぶのは楽しい」に変化したんです。そして、解答が間違っていても「その考えはおもしろい」と正解よりも考えることや発想力を認めてくれた教授と出会えたことも大きかったです。
【引用元:タウンワーク】
さらに大学3年生の時にはイギリスのケンブリッジ大学に1年間留学し、ビッグバンドのボーカルを担当するなど音楽に触れる機会が増えました。
ケンブリッジ大学での留学経験は、異文化交流や新しい音楽スタイルに触れる貴重な時間となり、再び音楽や自己表現の仕事に就きたいと強く感じるようになりました。
昔から歌ったり踊ったりすることが好きで、小・中学校の頃から演劇部に入ったりバンドをやったりしていまして。漠然とこういう世界に進みたいとは思ってはいたんですが、大学入学後は他の世界もあるかもしれないと思い一度離れたんです。でもイギリスの大学に1年留学した時に、ビッグバンドのボーカルで歌ったり音楽に触れる機会が多くて、やはり自分を表現する仕事をしていきたいなと改めて再確認しました。
【引用元:ORICON NEWS】
宮澤エマは大学卒業後芸能界デビューしミュージカル女優へ
宮澤エマさんはオクシデンタル大学を卒業後、ミュージカル女優を目指し2012年に帰国しました。
2013年、最初のテレビ出演はフジテレビ系「ネプリーグ」で、「孫タレント」としてDAIGOさんと共演しました。
宮澤エマさんは芸能界に入ったばかりの頃、「バラエティー番組に向いていない」と悩んでいました。
「祖父の名前のおかげで出演できているのに、DAIGOさんみたいに面白く話せない。この先どうなるんだろう?」と思っていた時、演出家の宮本亜門さんが声をかけてくれて、ミュージカルに出演することになりました。
上述のように、宮本亜門さんの32歳年下の弟と宮澤エマさんが同じ高校で、宮澤エマさんの高校時代の歌声を宮本亜門さんが覚えていたという縁がありました。
宮澤さんは芸能界に入った当初、「バラエティー番組に向いていない」と悩んでいたという。「祖父の名前のおかげで出演できているのに、(元首相の故・竹下登さんを祖父に持つ)DAIGOさんみたいに面白く話せない。この先どうなるんだろう?」と思っていたところ、出演番組を見た演出家の宮本亞門さんに声をかけられ、ミュージカルに出演するようになった。宮本さんの32歳年下の弟と宮澤さんが同じ高校で、高校時代の宮澤さんの歌声を宮本さんが覚えていたという縁があった。
【引用元:Yahoo!ニュース】
その後、宮本亜門さん演出のミュージカル「メリリー・ウィー・ロール・アロング」でミュージカル女優デビューを果たしました。
現在はミュージカル女優としての活動を中心に、バラエティ番組やドラマにも出演していて、これからも多方面での活躍が期待されています。
宮澤エマの父親は外交官で超エリート!
宮澤エマの父親は2つの大学を卒業しアメリカ国務省へ
宮澤エマさんの父親は、米国人のクリストファー・ジェームズ・ラフルアーさんです。
1949年12月12日生まれの74歳 (2024年7月現在)で、職業はアメリカの外交官などをしていました。
宮澤エマさんの父親の学歴ですが、まずアメリカのオハイオ州にあるオーバリン大学に進学し、その後、同じアメリカのプリンストン大学のウッドロー・ウィルソン・スクールを卒業しました。
宮澤エマさんの父親は、大学での勉強を通じて国際関係や政治学に興味を持ち、卒業後はアメリカ国務省でのキャリアをスタートさせました。
宮澤エマの父親は外交官としてのキャリアが凄い!
宮澤エマさんの父親は、1991年から1993年にかけて、米国国務省でベトナム、ラオス、カンボジアの担当オフィスディレクターを務め、その後、1993年から1997年まで在台湾米国協会の副理事を務めました。
1997年から2001年にかけては在日米国大使館の首席公使として、日本での重要な外交業務を担当しました。
2001年から2003年には、米国国務省で東アジア・太平洋地域担当の首席次官補を務め、東アジア地域の外交政策の策定と実施に貢献しました。
また、2003年から2004年には米韓同盟について協議するチームの座長として活躍しました。
さらに、2004年から2007年にかけてはマレーシア駐在のアメリカ大使として、アメリカとマレーシアの関係強化に努めました。
宮澤エマの父親は外交官のキャリア後も多くの重要な役職に就く
宮澤エマさんの父親は、2008年から2011年まではJPモルガン証券株式会社の副会長として政府関係・企業責任を担当しています。
その後は在日米国商工会議所の特別アドバイザーや、DTCCデータ・レポジトリージャパン株式会社の会長など、多くの企業や団体でリーダーシップを発揮しました。
現在、宮澤エマさんの父親はモーリーン・アンド・マイク・マンスフィールド財団の副会長やLMアソシエイツの社長を務めており、さらにいくつかの重要な組織の役員として活動しています。
2019年には、日米の交流促進への貢献が評価され、日本政府から旭日中褒章を授与されました。
宮澤エマの母親は元総理大臣の娘で自らの会社を設立!
宮澤エマの母親は元内閣総理大臣である宮沢喜一の長女
宮澤エマさんの母親はラフルアー宮澤啓子さんで、1946年生まれで東京都出身、元内閣総理大臣である宮澤喜一さんの長女です。
宮澤エマさんの母親は、若い頃から勉強が得意で、慶應義塾大学法学部(偏差値79〜80)を卒業し、その後、さらに学びたいと考え、アメリカのコロンビア大学ビジネススクールに進学し、MBAを取得しました。
学業を終えた後、宮澤エマさんの母親はフランスに留学しました。
宮澤エマの母親は日本初のトラベルジュエリー「クラブ・サー」を設立
宮澤エマさんの母親は、留学を終えた後、ドイツのルフトハンザ航空に入社し客室乗務員(CA)として多くの国際線に乗務し、その後、ルフトハンザ航空の広報部に移り広報活動に携わりました。
更にその後、外資系化粧品会社に転職し広報・広告ディレクターとして働きました。
なお、1980年にクリストファー・ラフルアーさんと結婚し、結婚後も宮澤エマさんの母親は仕事を続け、1992年には、自らの会社「クラブ・サー」を設立しました。
ちなみに、宮澤エマさんの母親は執筆活動も行っており、幻冬舎から「セレブに学ぶ幸せの『マナー』入門」という本を出版しています。
ラフルアー宮澤啓子さんの経歴は非常に多彩で、さまざまな分野で成功を収めてきました。
宮澤エマの姉は高学歴でアパレル会社経営の3人の子の母親
宮澤エマさんの姉は大学卒業後いい服を作りたいとアパレル会社を設立
宮澤エマさんの姉はラフルアー宮澤沙羅さんで、フランスのパリで生まれました。
姉は宮澤エマさんより5歳年上で、2024年現在40歳前後です。
幼い頃から学力優秀で、高校を卒業後、世界で最も有名な大学の一つであるハーバード大学に進学しました。
ハーバード大学卒業後、宮澤エマさんの姉は不動産投資会社で働き、その後、ベイン&カンパニーという大手コンサルティング会社でマネジメントコンサルタントとして勤務したり、金融機関なので働きました。
そして2013年に、宮澤エマさんの姉は「エム・エム・ラフルアー」というアパレル企業をニューヨークで設立しました。
宮澤エマさんの姉は、金融機関で働いていた時に、自分が快適に着られ、かつ仕事にふさわしいフォーマルな服が必要だと感じ、それを実現するためにこのブランドを立ち上げ、デザイナーの中村美也子さんと協力して、服を作り始めました。
ラフルアー宮澤沙羅CEO(以下、宮澤):私はもともと金融業界で働いていたのですが、ビジネスウーマン向けの服を探すのが難しく、あったとしても質があまり良くないという悩みがありました。母がかつて森英恵先生のところで働いていたこともあり、“いい服”がどのように作られているのかも教わっていました。その目線で見ると、当時のキャリア服はありえないと感じていて。だからブランドを始めようと決意しました。私にはアパレルの経験がなかったので、誰かリュクスの世界で働いている人と組みたいと考え、NYのヘッドハンターを通じて(中村)美也子と出会いました。
【引用元:WWDJAPAN】
この会社は、特にオフィスで働く女性のための服を提供するブランドで、シンプルでおしゃれなデザインが特徴で、多くの働く女性たちに愛用され、購入者は20万人を超えています。
現在、宮澤エマさんの姉は「エム・エム・ラフルアー」の最高経営責任者(CEO)として、アメリカのニューヨークを拠点に活動しています。
宮澤エマさんの姉は不妊治療をして3人の子の母親となる
宮澤エマさんの姉は、2015年に外国人男性のクリスさんと結婚しました。
ただ宮澤エマさんの姉は短角子宮と子宮内膜症のため不妊治療に取り組んでおり、代理母出産も選択肢に入れていました。
しかし不妊治療の結果、2020年8月には男の子のテオくんを出産します。
そして2020年9月には代理母出産により男の子のアストリッドくんとケントくんを授かり、3人の子を持つ母親となりました。
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宮澤エマの祖父母は代々政治や社会の発展に関わってきた人物!?
宮澤エマの祖父は元内閣総理大臣宮澤喜一!
宮澤エマさんの母方の祖父は宮澤喜一さんで、1919年(大正8年)に広島県で生まれました。
宮澤エマさんの祖父は東京帝国大学法学部を首席で卒業後、大蔵省に入り、さまざまな大臣職を歴任しました。
そして、祖父が72歳の時、1991年(平成3年)第78代内閣総理大臣に就任し、その優れた知識とリーダーシップで多くの人々に評価されました。
ちなみに、英語が堪能であったことも有名で、特に独学で英語を習得し、戦後の占領時代にはGHQとの交渉役として大きな貢献をしました。
また、祖父はサッカー好きとしても知られ、国内で開催される国際試合によく足を運んでいたとされていて、サッカー・ワールドカップ招致国会議員連盟の議長としても活躍し、日韓ワールドカップの成功に寄与しました。
なお、宮澤エマさんが18歳の時(2007年)に、祖父の宮澤喜一さんは87歳で亡くなっています。
宮澤エマの祖父は孫の為にたまごっちを買いにSPとおもちゃ屋へ
宮澤エマさんが幼少期の頃、祖父を「グランダッド」と呼んでいたそうです。
宮澤エマさんが7歳の誕生日に、祖父から何が欲しいか尋ねられ、「たまごっちが欲しい」と言うと、祖父は「今から買いに行こう」と言いだし、SPを引き連れ、原宿のおもちゃ屋へ行ったそうです。
宮澤が「7歳くらい」の誕生日のこと。喜一氏から「何が欲しいの?」と尋ねられたという。当時は「たまごっち」が大ブーム。宮澤は「たまごっちが欲しいって言ったら(喜一氏が)『今から買いに行こう』って急に言い出して。SPさんを引き連れて、原宿のおもちゃ屋さんめがけて」と振り返った。
【引用元:スポニチ】
そして、毎週日曜には祖父の家で夕飯を一緒に食べ、宮澤エマさん姉妹とトランプで遊び、姉が負けて泣いていても、祖父は「負けて泣く子とは一緒に遊ばない」「泣けば良いと思うな」と孫に容赦なかったそうです。
幼少期は祖父のことを「グランダッド」と呼んでいた。祖父、祖母とは、毎週日曜に夕飯を一緒に食べるのが常だったといい、当時の家族写真を公開した。宮澤さんは「祖父の家に行くと、トランプで神経衰弱とかで遊んでくれた。姉が負けて泣いていると、『負けて泣く子とは一緒に遊ばない』とぴしゃりと言って。『泣けば良いと思うな』と孫にも容赦しない祖父だった」と振り返った。
【引用元:毎日キレイ】
また、宮澤エマさんが子供の頃、父と祖父は英語で難しい話をし、遊ぶときは頭脳を使うゲームで、テストで92点を取っても「100点以外の点数なんてあるの?」と言われるなど、かなり優秀な一族であったことがわかります。
子どもの頃、父と祖父はいつも英語で難しい話をしていた。祖父と遊ぶのは主に頭脳を使うゲームで、テストで92点をとっても「100点以外の点数なんてあるの?」と言われる始末。
【引用元:テレビ朝日】
更に、宮澤エマさんは高校時代にパレスチナ問題を学んだ際には、祖父から直接「生きた歴史」を教わる機会を得たと言っています。
高校でパレスチナ問題を学んだときには、祖父から“生きた歴史”に触れさせてもらったことなどを明かす。
【引用元:ステージナタリー】
宮澤エマさんの祖父母は船の中で恋に落ち恋愛結婚した!?
宮澤エマさんの母方の祖母は宮澤庸子さんといい、東京女子大学の英文科を卒業し、当時としては珍しい大卒の女性でした。
宮澤エマさんの母方の祖父母の宮澤喜一さんと庸子さんは、日米学生会議での出会いをきっかけに、船の中で恋に落ち、当時としては珍しい恋愛結婚をしました。
林:そうなんですか。宮澤喜一さんは戦後最も頭のいい総理と言われていたし、奥さまもすごい方で、戦前、日米学生会議出席のときに出会われたんでしょう?
宮澤:そうなんです。船の中で出会って、当時としてはめずらしい恋愛結婚をして。
【引用元:AERA dot.】
なお宮澤庸子さんは2014年5月に94歳で亡くなられています。
宮澤エマの一族は代々政治や社会の発展に寄与してきた名家!
宮澤エマさんの高祖父(宮澤喜一さんの祖父)小川平吉さんは、国勢院総裁や司法大臣などの要職を歴任しました。
宮澤エマさんの曽祖父(宮澤喜一さんの父)、宮澤裕さんは、政治家として活躍し鉄道政務次官や商工省参与を務めました。
宮澤エマの父方の祖母は市民劇団を立ち上げた活動的な女性!?
宮澤エマさんの父方の祖母、リディア・ラフルアーさんは1927年に生まれました。
宮澤エマさんの祖母はスターになる夢を持っていましたが、叶わず、図書館で働き、退職後には市民劇団を立ち上げました。
そして若くして離婚した後、祖母はマンハッタンで一人暮らしを続け、学生たちを家に住まわせるなどしていました。
宮澤エマさんは「初めて私にブロードウェーミュージカルを見せてくれたのもおばあちゃん」と言っています。
宮澤エマさんの祖母は孫が芸能界に入ることを一番喜び、宮澤エマさんが2013年に初舞台に立ったとき、アメリカから駆けつけて観劇しました。
祖母は日本語が分からないにもかかわらず、宮澤エマさんの歌や演技を見て手放しで褒めてくれたと振り返っています。
祖母のリディア・ラフルアーさんは1927年生まれ。スターを夢見るも時勢柄かなわず、図書館に勤め退職後に市民劇団を立ち上げた。若くして離婚した後はマンハッタンで1人暮らしを続け、家に学生を住まわせてあげたりするアクティブな女性だった。 「初めて私にブロードウェーミュージカルを見せてくれたのもおばあちゃん」。孫の芸能界入りを一番喜び、13年の初舞台は米国から駆け付け観劇。「日本語が分からないのに、私の歌や演技をしている姿を手放しで褒めてくれた」と振り返る。
【引用元:スポニチ】
なお、宮澤エマさんの父方の祖母は、2020年93歳で老衰のため亡くなっています。
宮澤エマの家族構成まとめ
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家族構成 | 詳細 |
父親 | クリストファー・ジェームズ・ラフルアー。1949年12月12日生まれ。元アメリカ外交官。オーバリン大学、プリンストン大学卒。国務省、在日米国大使館などで要職を歴任。 |
母親 | ラフルアー宮澤啓子。1946年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。コロンビア大学でMBA取得。元ルフトハンザ航空CA。自らの会社「クラブ・サー」を設立。 |
長女 | ラフルアー宮澤沙羅。フランス・パリ生まれ。ハーバード大学卒。金融、不動産でのキャリア後、2013年に「エム・エム・ラフルアー」を設立。3人の子の母。 |
次女(本人) | 宮澤エマ。1988年11月23日生まれ。東京都文京区出身。オクシデンタル大学宗教学専攻。2012年に帰国し、2013年に芸能界デビュー。ミュージカル女優。 |
祖父(母方) | 宮澤喜一。元内閣総理大臣。1919年生まれ。東京帝国大学法学部卒。英語が堪能で、GHQとの交渉役を務める。1991年に第78代内閣総理大臣就任。2007年に87歳で亡くなる。 |
祖母(母方) | 宮澤庸子。東京女子大学英文科卒。戦後の日米学生会議で宮澤喜一と出会い、恋愛結婚。2014年に94歳で亡くなる。 |
祖父(父方) | 詳細不明。 |
祖母(父方) | リディア・ラフルアー。1927年生まれ。図書館勤務後、市民劇団を立ち上げる。孫の芸能活動を応援。2020年に93歳で亡くなる。 |